2005年8月のプチ日記

8月31日(水曜) 深夜

 自然は美しい。恋愛はそれ以上に美しい。

 …というわけで、自然と愛の調和をコラージュ作品にしてみました。

 プラハの雄大な夕焼け空。その中に浮かび上がる、後背位で愛し合う男女のシルエット(どこかにあります。探してみてください)。

 ロマンス×ロマンスの二乗で、大層なロマンス加減でありますことよ。

 映画のラブシーンも、ぜんぶ後背位にすれば素敵なことになりそうですね。「タイタニック」のラブシーンもバックにて。

 

8月30日(火曜) 深夜

 大学院時代に入っていた学会から、いまだに論文雑誌(投稿論文集)が送られてくる。

 どの学会も会費はずっと未納なのだが、送付を打ち切ってくる学会もある一方、それでもずっと送り続けてくる学会もある。

 個人的な印象では、大きな学会ほど早々に除名され、小さな学会ほどいつまでも除名されないように感じる。大きな学会は会員が少々減ったところで痛くも痒くもないけれど、小さな学会は一人でも会員数が減ると痛いので、会費を滞納してる会員もクビにしにくい事情があるのだろう(学会にとっては「公称会員数」が勢力指数になっている側面がある)。

 その結果、弱小学会の(言っちゃ悪いが)ショボい論文ばかりが家に送られてくることになる。読むことなどまずないのでそのまま捨てればいいのだが、投稿論文を出す苦労は 身に染みて知っているので、ゴミ箱に直行させるのはどうも気が引ける。著者の「怨念」が込められているような気がするからである。

 だったらさっさと脱会しろよと言われそうだが、退会する手続きが面倒なので、ずっとそのままになっている。おかげで現在、読みもしない論文が部屋に山積し続けている有様でありまして。

 で、なんとかこれを有効利用できないものかと思いあぐねた挙句、ヒモでくくって「ゴミ袋を押さえるための重し」にしている昨今。

 自分の研究がちっとも世の役に立たないという葛藤から研究から退く院生も多いけれど(ぼくもその一人だった)、今となっては、若き後輩たちに声を大にしたい。「決してそんなことはないんだよ!」「無駄な研究なんて一つもないんだよ!」と。

 論文集をくくってまとめた重し、けっこう使いやすいんっすよ。 蓄積こそ力なり。

 

8月29日(月曜) 深夜 

 新幹線で東京に行くとき、いつもノートパソコンでDVD映画を見ることにしている。京都−東京間の2時間少々がちょうどいい具合なんである。

 ただ、周囲の人から画面が見えるので、タイトル選びは慎重にならざるを得ない。ベッドシーンなんかがある作品だと恥ずかしいから、そういう場面が絶対なさそうな映画をチョイスしているのだ。したがって、おのずとコメディ系か戦争系、アクション系あたりに落ち着いてくる。

 というわけで、先日東京に出向いたときも某アクション系映画をパソコンに入れて臨んだのだが、結果として大失敗だった。アクション系のくせに、やたらとラブシーンが登場するんである。熱いキッス、激しい抱擁、そしてコッテリとした愛撫。

 うわー、やめてくれえー! ここは新幹線の中だぞ、ハレンチ野郎めがっ!!

 おまけに先日は間が悪いことに、ぼくの隣には小学校高学年くらいの男の子が座っていて、さらにその隣に彼の母親が座っていた。映画がラブシーンになるたびに身を乗り出して覗きこんでくる男の子、そしてそれを非常に不愉快そうな眼で見ている隣の母親。ああ、ごめんなさい、ごめんなさい。

 アクション映画にラブシーンなど要らんのだ!! …と改めて憤慨しております。いやまァ、悪いのはぼくなんですけれど。

−−−

 ついでに言うと、ラブシーンはなくとも、あまり感動的な映画はダメです。

 恥ずかしいのでタイトルは書かないけれど、以前とある名映画を新幹線の中で見ていたら、たいそう可哀相で涙がポロポロこぼれてしまい、これはこれで猛烈に恥ずかしい思いをしたことがあるのだ。「ノートパソコンにヘッドホン姿でポロポロ落涙してる姿」を、周囲の乗客みんなに見られる恥ずかしさ。

 もちろん、何度もアクビしてるフリをかましましたけどね。顔面グチャグチャにしての大アクビ。

 

8月28日(日曜) 夜

 昨日は筒井康隆さん主催の酒盛りに参加させていただいてたのでした(Go smoking の関係者を招待してくださったもの)。

 非常に楽しかったんですが、楽しさのあまり、あの筒井大先生の眼前で正体不明にへべれけになってしまい。参加者のお一人からは「名倉さんにチンコを掴まれたこともいい土産です」てなメールが届き(まったく記憶が無い!)。もうどうしようもないな、と思うばかりです。

 ちなみに酒盛りではビンゴゲームが行われ、筒井先生は「股間に金色の蛇口がついた真っ赤なパンティー」を獲得しておられました。

 筒井先生も一度くらいは、ためしに穿いてらっしゃるかもしれません。

−−−

 今日は二日酔いで死にそうになりながら、一人で新幹線に乗って帰ってきた。

 なんども吐き気を催すたびにトイレに駆け込んでいたのだが、一人で新幹線に乗っていると、財布などの貴重品をどうするかで困ってしまう。

 防犯を考えるなら、もちろん全てトイレに持参するのがいいのだが、ノートパソコンとかまでトイレに持参するのはかなり面倒だし、だいいち恥ずかしい。それに、あからさまに隣人を警戒しているようで、なんとなく気まずい雰囲気にもなる。

 そこで勇気をだして、財布やらノートパソコンやら一切合財を座席に置いたままトイレに立っていたわけでありますが。

 席に戻るとどうしても気になり、そのつどカバンを開けて、盗られていないか確認してしまったのでした。それを不愉快そうな目で見る隣人。「いえ、疑ってるわけじゃないんです!」「取り出したいものがあるからカバンを開けたんです!」とアピールするために、用事もないのに手帳を取り出して熟読してみたり。

 こういうどうでもいいことで、人生をどんどん消耗してるような気がします。

 

8月27日(土曜) 夕方

 ちょっと大きな用事があって、東京・六本木に来ております。

 それにしても六本木、ベンツ&BMW率が高いですねえ。びっくり。

 よく見たら、警察の犯人護送車までベンツである。

 自分はベンツなんて縁のない人間だと思っていたけれど、ひょっとしたら乗る機会があるような気もしてきました。

 それとも、エラい人が逮捕されたとき用の護送車なんでしょうか。

 税金を、税金を…。

 

8月26日(金曜) 深夜

 職場の若い男性社員に、とても眼光の鋭いA君というのがいる。

 非常にシャープな顔立ちで、その目つきはギロリと対象を睨みつける。彼に見つめられたら、思わず足がすくんで石になってしまいそうな、そんな風貌の男性であるわけですが。

 このA君、カミソリのような雰囲気に似合わず、いつもボケーッとしているんである。

 A君はきっと、うんこしてるときもエロビデオ見てるときも、ずっと「切れ味鋭い眼差し」なんでしょうな。

 そしてA君を見るたびに、ああ自分はしょぼい目つきでヨカッタと胸をなでおろす日々であります。

 

8月25日(木曜) 深夜

 いまだに小学校なんかではイジメが問題になっていると聞く。

 ぼくが小学生だった頃も、たしかにイジメは存在した。そしてイジメられる対象は、決まってどこか「普通じゃない」者だった。極端に太っている者、極端にやせている者、極端に転校生な者、極端に勉強ができない者、極端に運動ができない者(ぼくのことである)等々。

 これは今思えば、多数派である「正常」が少数派である「異常」を駆逐しようとする力動だったように思う。「正常」が存在するためには比較対象としての「異常」が必要不可欠であるから、いくら障害児が特殊学級に囲い込まれたところで、クラスの中の数人は「異常」にならざるを得ないのだ。

 したがって、いくら集団を均質化したところで、その中の一部分は「異常」として攻撃対象になってしまう。そもそも人間は先天的に攻撃性を備えているわけだから、いくら使い道がなくても、どこか に矛先が向くようにできているのだろう。

 …となると、抜本的なイジメ対策法としてこういうのはどうだ。

 「教室にヘビを放っておく」

 異質なものを排除しようとするのがイジメの本質であるなら、ヘビはどんな人間に比べたって異質である。極端に長いし、極端にウネウネしている。いかなるデブも運動音痴も、ヘビに比べりゃあ普通ではないか。

 生徒たちは、ヘビを棒でつついては「あっち行け!」と叫び、石を投げては「キモいんじゃボケ!」と罵る。かわいそうなのは何の罪もないヘビであるが、このような教室であれば、人間が攻撃対象とならずに済むのではないか。ヘビなら動物愛護団体も目くじらを立てるまい。

 そしてイジメが進展すれば、行きつくところは村八分(シカト)。こうなればしめたもの、ただ単に教室の中をヘビが這い回っているだけの話である。

 …個人的にヘビが大嫌いなので、ヘビの有効利用法を考えていたら、こんな妄想になってしまいました。失敬。

 

8月24日(水曜) 深夜

 デジカメの液晶がおかしくなったので、メーカーに修理の見積もりを頼んでみたら。

 昨年3万9千円で買ったデジカメの修理代が3万9千5百円。こういうものなのか!?

 同じ機種の新品をネットオークションで探してみたら、2万円台で売ってありました。

−−−

 ここのところ涼しいので、クーラーをかけず、ベランダ開放にて過ごしている。風通しのよさを考えて、網戸も全開である。

 それはいいのだが、さっき、大きな昆虫が部屋に飛び込んできた。うわっ!! 

 部屋の灯りにつられるのか、その後もブワンブワンと部屋を飛び回る昆虫。どうやらカナブンか何かのようだが、このままでは落ち着いて過ごせやしない。

 で、早いとこ退散していただこうと思って、部屋の灯りを落としたわけですが。

 こんどは部屋が真っ暗になったせいで、昆虫がぼくの顔や体に遠慮なく体当たりしてくるようになった。ひゃああーっ! やめてくれええー!!

 ぼくが動かないせいでヤツから視認されないのか? こわい動物がいることをアピールしなければならないのか?

 そこでキラーリカント(※ドラクエの敵キャラ)のように両手を振り上げ、熊のようなポーズをとって威嚇して。フーッ、ガォー!! なんてって唸り声をあげて。

 そしてふと気がつけば、「真っ暗な部屋の片隅で、虫を相手に、熊のポーズとりながら唸り声をあげている」自分。

 なんだかもう、大抵のことがどうでもよくなってきました。

 

8月23日(火曜) 深夜

 会社帰り、会社から駅まで一人で歩いていたところ。

 50メートルほど前方に、他部署のAさんが歩いている後ろ姿が目に入った。これはマズい。中途半端な知り合いなので、追いついてしまったら気まずいことになる。「相変わらず忙しいですねー」なんて世間話をしなくちゃならないのは真っ平ごめんである。

 このように判断して、歩く速度を遅くしようと思ったそのとき。

 ぼくの30メートルほど後方に、他部署のBさんが急ぎ足で歩いてくる姿が目に入った。うげっ、これまた前方のAさんに輪をかけて中途半端な知り合いである。追いつかれてしまったら「相変わらず暑いですねー」なんてって、さらに無難な世間話をしなくちゃならない。考えるだけで恐ろしい。

 前方にAさん、後方のBさん。字面としては正に、「前門の虎、後門の狼」状態に陥ってしまったのだった。

 ゆっくり歩けばBさんに追いつかれてしまう。かといって、早く歩けばAさんに追いついてしまう。

 …てなわけで、両者間の距離を緻密に計算しながら、いままで自分で歩いたことの無いような微妙は速度で「AさんとBさんの間」をキープし続けていたわけでありますが。

 気がつけばBさんに追いつかれて声をかけられ、それに反応して振り向いたAさんも一緒に加わる展開となり、けっきょく虎と狼の両者と仲良く歩くことになってしまったのでありました。

 こんなことならどちらか一人を選んでおけばよかった、と思うも後の祭り。

 そのあと、本日の天候や会社の忙しさについて大いに盛り上がらざるを得なかったことは言うまでもありません。

 本日の教訓: 二兎から逃げる者は二兎から捕まる。

 

8月22日(月曜) 夜

 どうしても嫌いな音、生理的に受けつけない音というのがある。

 ぼくの場合、金属どうしが高い音でぶつかりあう音(フォークとスプーンなど)を聞くと、身の毛がよだつ。比喩ではなく、文字通り「鳥肌」が立ち、心拍は上昇し、思わず耳をふさぎたくなるんである。

 振り返れば小学生の頃から、トライアングルの音を聞くと気が狂いそうになっていた。「黒板をツメで引っ掻く音が耐え難い」という人がよくいるが、ぼくにとってトライアングルの音はそれ以上の破壊力だった。トライアングルをみんなで練習するなんて、まさに阿鼻叫喚の地獄絵である。♪チーン! アギャッー!!

 だから、フランス料理など食べに行く機会があっても、必ず割り箸を頼んでいる。ステーキも勿論、ナイフ&割り箸でいただく。さもないと食べるたびに身の毛がよだってしまい、とても食事どころではないんである。♪カチャカチャッ! ウギャーッ!!

 相手がフォーク&スプーンをカチャカチャ鳴らしていると、それだけで食欲が失せて、苦虫をかみつぶしたような顔をしてしまう。みんなからは心配されるけれど、本当のことを言ってみんなに気を遣われるのもナンなので、黙って苦虫をかみ続けることになる。「慣れないフランス料理で緊張しているんだ」くらいに思われてるに違いない。悔しいけれど仕方がない。

 …ただ、トライアングルにしてもフランス料理にしても、金属音が鳴ることをあらかじめ予期できるからまだよかった。来るべき瞬間にそなえて、歯を食いしばる等の対策を講じられたからである。

 しかし本日。

 職場での静まり返った会議中、隣人が突然、ポケットからジャラジャラしたキーホルダーを取り出しやがったのでした。そして思わず、「ウグッ!」と叫んでしまったわけでして。

 会議に参加していた社員一同、わけが分からずただポカーンと。咄嗟に「なんでもありません!」とぼく。

 よく考えたら、なんでもないのに「ウグッ!」とか叫ぶ輩のほうがどうなんだろう。

 

8月21日(日曜) 夜

 ここしばらく酒量が増えているので、本日は自重のために工夫して。

 缶ビールをあまり冷やさず、ぬるいままチビチビ飲んでおります。これならあまり美味しくないから飲み過ぎずに済む。

 いったい何のためにここまでして飲んでるのか、自分でもさっぱり分かりません。

−−−

 ところで、チンコは長くて大きいほうがいいという風潮がある。

 これについては賛否両論あるようだが、ぼくももちろん否定派である。

 長くて大きい男性がそんなにいいなら、女性の乳房が進化のなかで少しずつ大きくなってきたように、今の世の中、巨根の男性であふれ返っているはずではないか。でも実際、そうなっていないことは確かである。

 それに、長くて大きいほうがいいというのも、平常時なのか勃起時なのか? 女性とみればピンコ立ちになってしまうような輩は、そりゃあ大きく見えるだろうが、こういう男が女性から人気を博していたとも考えにくい。

 だいいち今の社会では、チンコの大きさなんて外見からは分からない。お見合いにしたって、お互いの局部を「お見合い」するわけではないだろう。

 海岸の岩場などに生息するフジツボたちは随分と長いチンコを持っているそうである。彼らは一度くっついた場所から移動できないため、チンコの届く範囲の相手としか交尾できない。その結果、長いチンコを持つものが自然淘汰のなか進化してきた ものと思われる。

 しかし我々人間は、足があるから自由に移動できる。足どころか、いまや自動車や飛行機だってある。チンコが少々長かったからといって、ちっとも関係ないと考えるのが自然ではないか。というか、何メートルもあるチンコをこっそり伸ばして夜這いされたら、どんな女性だって飛び上がって逃げだすに違いない。

 チンコの長さ大きさばかり話題にしてる人たちには、こう言ってやりたい。「君たち、フジツボに生まれてたらよかったのにね!」

 本日の教訓: 人は自分にとって都合のいい情報ばかり選択的に取り込みやすい。心理学で「認知的不協和の理論」と呼ばれる現象。

 

8月20日(土曜) 夜

 飲んでばかりの今週末ですが。

 近所のスーパーにこんな募金箱がある。

 「不要なレシートを入れないでください」としつこく書いてあるのに、いつ見ても、入ってるのはレシートばかり。

 こんなこと書くからダメなんじゃないかと思う。

 なにも書いてなかったら、みんな「単なる募金箱」としか認識せず、レシートのことなど頭に浮かべないだろう。しかし、「不要なレシートを〜」なんて注意書きされると、かえって「そういやレシートって邪魔だよな」と寝ていた子どもを起こす結果になっているんじゃなかろうか。

 というか、右側の大きいほうの注意書き。真上からみたら「不要なレシートを」しか見えてません。こりゃダメだ。

 …酔うと文章書くのが面倒になってるので、このへんにて失礼します。ああ、喋りてえ。

 

8月18日(木曜) 深夜

 相変わらず暑い日々が続いておる昨今でありますが。

 近所の道を歩いていたら、自転車に乗った子どもたちも赤信号の前で話していた。

 「あっついなー」
 「ほんまや。止まったらメチャクチャあついわー」
 「自転車こいでるときのほうが涼しいなあ」
 「オレ、こぐわ」

 そして彼らは、赤信号の前のスペースで、ぐるぐるぐるぐる弧を描くように走りはじめたのでした。

 「こいだら、ちょっと涼しィなるなー」
 「ほんまや!!」

 涼をとるために、ひたすら自転車をこぎ続ける子どもたち。

 なにか間違ってる気がするけれど(そもそも自転車をこぐという運動行為が体温を上げてるのだ!)、考えてみればぼくらも似たようなことをやってるのかもしれません。

 …あまり書くと風刺っぽくなってしまうけれど、そういうことではなくて。

 「いちど自転車をこぎ始めたら止められない」という莫迦みたいな法則が、意外と世の中を支配してるのかもしれへんですね。

−−−

 さて本日、Go smoking に書いている連載コラムが更新されてます。

 今回のテーマは「 三つ子のタバコ百まで」。恥ずかしい話なんですが、この歳になっても未だに親の前でタバコを吸えない情けなさについて書いてみました。高校時代にタバコを吸ってることが親にばれて大目玉を食らって以来、どうにも「きっかけ」がつかめないまま現在に至っておるわけでありまして。

 よければご覧くださると嬉しいです。

 

8月17日(水曜) 深夜

 電車の吊り広告を見るのが好きだ。

 朝の満員通勤電車は本を読んだりできないので退屈しがちだが、吊り広告さえあれば時間をつぶせる。

 とりわけ好きなのは雑誌の吊り広告である。見出しの一覧を読んでいるだけで楽しいし、「きっとこういうことが書いてあるんだろうなァ」などと想像しているとそれだけで満足してしまう。すっかり満足してしまうので、雑誌はまず買わない。

 …というわけで先日も、男性向け某大衆紙の吊り広告を遠くから「熟読」しておったわけですが。

 そしたら、こんな見出しが目にとまった(ウロ覚えだけど)。

 「高岡早紀セクシーショット! 悪い下着」

 悪い下着ってなんだ? ダイソーとかで売ってる100円ショーツのことか? それともドクロの絵柄とかがプリントされてるショーツのことか?

 どちらも今ひとつ興奮しないぜ! …と思いながらも、気になったので満員電車をかきわけて吊り広告に近づいてみたところ。

 実際には「黒い下着」と書いてあったのでした(ぼくは乱視があるので、遠くからだと文字がかすんで見える)。なあんだ。これだったらダイソーの100円ショーツのほうがずっとマシである。

 黒い下着にはいつもガッカリさせられてばかりだ(パンチラしかり)。単なる個人的な趣味なんですが。

−−−

 でも、「悪い○○」というタイトルは妙に魅力的だなァと思う。

 そういや以前、倉橋由美子の小説に『悪い夏』というのを見つけて、タイトル買いしてしまったこともあった。

 「悪い〜」という言葉には、ダメさ加減と背徳性が入り混じった、なんともいえない魅力があるように思う。被修飾語が日常的であればあるほど。

 またもや、よく分からない日記になってしまってすみません。

 悪い日記ですね。悪い満足、悪い謝罪。

 

8月16日(火曜) 深夜

 美味しい料理店や商品を見つけると、誰かに教えたくなるものだ。

 この美味しさを知人・友人にも味わってほしいと思うし、その根底には「オレってこんないい店(商品)を知ってるんだぜ」という自慢の気持ち、もしくは「こんないい情報を教えてやったんだぜ」という恩着せがましい気持ちがあるのかもしれない。

 だから逆に、いまひとつな料理店や商品にあたってしまったら、たいていは誰にも言わずに済ませてしまう。どうでもいい情報などわざわざ教える気にもならないし、だいいち、自分に選択眼がないことを悟られるのが恥ずかしいという気持ちが働く。

 例外として、あまりにもヒドい味だった場合は「愚痴」あるいは「警告」として誰かに喋ることになる。つらかった経験はネタとして吐露したくなるものだし、「あの店は不味いから絶対行くな!」と教えることで、せめてもの報いをという気持ちが働くからである。

 クチコミで広がる料理店(商品)は、「美味しい」か「余程マズい」かのいずれかだという事実が、このことを物語っていると言えるだろう。

 そして全然クチコミで広がらないのは、早い話が「どうでもいい」料理店(商品)である。

 で、本日の冷やし中華。

 「誰にも教えたくない」冷やし中華。さぞかし猛烈に「どうでもいい」味なんでしょうなあ。

 

8月15日(月曜) 深夜

 『妻を帽子とまちがえた男』(オリバー・サックス著/晶文社)という本を読んでおります。

 脳神経科医である著者がさまざまな脳損傷の患者を描いたエッセイ集で、その中の一章はタイトルどおり、妻を帽子とまちがえた男について書かれている。

 著書によればこの患者、視覚的失認症のために、目は見えても物を判断できない状態に陥っていたのだという。

 たとえば手袋を見せて「これは何ですか?」とたずねると、「全体が袋状になっていること」や「先っぽが五つに分かれていること」などは分かるものの、「五種類のコインを入れる袋かな?」といったトンチンカンな答えを口にしてしまう。部分部分に関する視覚情報は収集できても、それを総合的に判断する能力が失われているため、対象物が身近な品物であることを認識できないのだ。(大脳の視覚皮質が障害されているのだろうとのこと)

 そしてタイトルの場面は次のように描写される。

彼の顔には、微笑が浮かんでいた。テストは終了したと思ったのだろう、帽子をさがしはじめていた。彼は手をのばし、彼の妻の頭をつかまえ、持ちあげてかぶろうとした。妻を帽子とまちがえていたのだ。妻のほうでも、こんなことには慣れっこになっている、というふうだった。

 大真面目に書かれているのに思わず笑ってしまったのだが、この笑いはおそらく、あまりにも予想外の事柄が当たり前のように描かれているという、クラクラするようなズレの感覚なのだろう。夫に帽子と間違われる妻、そして持ち上げられてしまう妻。かわいそうだけれどメチャクチャすぎるぜ!!

 逆に言えばこれは、我々人間の脳ミソが普段、どれだけ高次なコトを当たり前のように処理しているかという証左なのだろうけど。 

−−−

 ちなみに、この本には別の失認症患者も紹介されていた。

 自然史博物館の案内係だったある男性は、鏡に映った自分の姿を、類人猿の見本展示ととりちがえてビックリ仰天したんだとか。

 ぼくも以前、酔っ払って歩いていたとき、道端で寝そべっていた子猫を巨大ナメクジだと思ってびっくりしたことがあるけれど。

 いやはや本物には敵いません。類人猿ですか。

 

8月14日(日曜) 夜

 近所のスーパーに出かけた日曜日でした。

 途中、歩道の赤信号で引っかかってしまのだが、車の往来もないのでそのまま無視して渡ることにした。

 すると隣にいた母子連れが騒ぎ始めたのだった。

子:「あ、あのおっちゃん渡ってはる。ボクも渡るー!」
母:「ダメよ、赤信号なんだから」
子:「だって、おっちゃん渡ってはるやん」
母:「ダメなものはダメ! 赤信号でしょ!」
子:「じゃあ、あのおっちゃんはなんで渡ってもいいの!?」
母:「あの人はね…。し、信号が見えてはらへんのっ!」

 なんとも気恥ずかしい気持ちになりながら、急ぎ足に立ち去ろうとしたら、さらに追い討ちをかけるようにして。

子:「なーんや。あのおっちゃん、信号あること知らはらへんのや」
母:「そうよ、信号は気をつけなくちゃダメよ」
子:「あのおっちゃん、アホなん?」

 後ろを振り向くと、静かに首を縦に振っている母親と目が合ってしまった。

 お母さんは、引きつった笑顔でそのまま会釈してくださいました。

 はいはい、どうせアホのおっちゃんですよ。畜生。

 

8月13日(土曜) 夜

 先月、東京のとある飲み屋に入ったら、店員さんがぼくの顔をまじまじと眺めてきた。

 どうしたんだろうと思って相手の顔を見つめ返したところ、その店員さんから声をかけられた。

 「…あのう、ひょっとして名倉さんですか?」

 「そうですけど!?」と驚きながら事情を尋ねると、どうやらぼくのサイトを読んでくださっているらしく、これまでの連載で顔を知っていたのだという。で、あまりにもソックリな人が入ってきたので、ついついじっと見てしまったんだと。

 こういうのは本当に嬉しいものであるが、続く展開に思わずクラクラしてしまった。というのも、その店員さんが別の店員と大きな声で喋り始めたんである。

 「あの人、やっぱり名倉さんだって!」
 「え? 誰よそれ?」
 「ホームページとかやってる人じゃん」
 「えー、分からないよー」
 「ほら、サバイバルストローで自分のおしっこ飲んだりしてた人よ!」(※この連載のことと思われます)
 「あー、あのおしっこ飲んでた人かー!」
 「そうそう、おしっこ飲んでた人!」

 そして周囲にいた客からも一斉に振り向かれて。ぼくのことなど知らない人々にとっては、ただ単に、「自分のおしっこを飲んでる人が店に来た」だけの話ではないか。こんな状況の中、ビール飲んだりしなくちゃならない恥ずかしさといったら。

 声をかけてくださるのは非常に嬉しいんですが、「おしっこ飲んでた人」は後生ですから勘弁してやってください。まあ自業自得なんですけど。

 

8月11日(木曜) 夜

 悲劇的なシーンというのがある。

 たとえば高校野球の9回裏ツーアウト。内野ゴロを打ってしまった選手が、すでに一塁アウトになっているにもかかわらず、最後にヘッドスライディングですべりこむ。そして試合終了、さよなら甲子園……。

 悲劇である。ここで乾いた笑いをうかべる心ない人たちもいるが、もちろんぼくも笑ってしまう。このときのヘッドスライディングで指を骨折して、救護隊が駆けつける騒ぎになったりしたら、なお可笑しいだろう。

 夏休みの自由研究のテーマ選びに困っているチビっ子たちには是非、こういう「悲劇採集」をしてほしいなァ。…とふと思った本日。

 よく分からない日記ですみません。

 

8月10日(水曜) 深夜

 昨夜遅く、自宅が突然停電した(停電が突然起こるのは当たり前なんですが)。

 いきなり部屋が真っ暗になり、操作していたパソコンもひゅーんと電源が落ちる。うわ、うわわ。

 ベランダから見る限りでは、停電してるのはウチの近辺だけだった。向かいのマンションは煌々と灯りがついているのに、こちら側だけが真っ暗になっている。どうやら発電所ではなく送電線のトラブルっぽい。

 で、30分経っても一向に復旧しないので、交通事故でもあったのかと思って外に出てみたらところ。

 案の定、パトカーやら電力会社のレスキュー車やらが列を作って結構な騒ぎになっていた。

 そして騒ぎの中心地に行ってみたのが下の写真。

「なんや、なんや!?」 「テロとちゃうやろな!?」 「…あ、ヘビやね」 「ふうん」

 電柱を這い上がったヘビが感電して、送電線をショートさせたのが停電の原因とのこと。深夜に何百世帯もの住民をパニックへと突き落としたのは、一匹の小さなヘビなのだった。痛快ですな!!

 野次馬の一人が、したり顔で、「現代社会の脆弱性やね」とか講釈してたのが面白かったです。小さなヘビに向かって延々と。

 …とか言ってるぼくも、以前、ヘビの子どもがベランダにおいでなすっただけでパニックになってたんですけどね。

 

8月9日(火曜) 夜

 歳のせいか、映画の登場人物名がさっぱり覚えられなくなってきた。

 ひどい時は主人公の名前すら覚えていない状態なので、当然ながらストーリーがちっとも把握できない。これでは見ていても楽しくないから、躍起になって登場人物の名前ばかりに集中していると、今度はストーリーそのものについていけなくなる。

 そもそも実生活での知人の名前もなかなか覚えられないのに、映画の登場人物の名前なんて覚えられるわけがないのだ。

 なので最近、ますます映画館から足が遠のいているのだが、レンタルした映画を自宅で見ているぶんにはまだ大丈夫である。分からなくなったら巻き戻して確認できるし、一度見終わってよく分からなければ、もう一度見ればだいたい分かる。

 サスペンス映画なんかだと、一回目の鑑賞で「おおよその登場人物」と「最後の謎解き」を把握しておいたうえで、二回目の鑑賞で「なるほど、こういうことだったのか!」という感動を味わっている。一粒で二度美味しいというヤツである。

 …などと悔し紛れに書いているが、人の名前を覚えられないのは本当に困る。

 職場でも「総務部の斉藤さん」と言えばすぐに通じるところを、「総務部のほら、あの中肉中背のオバサンで、ちょっと貧相な顔つきの垂れ目の人」とか言わなくちゃならないのが非常につらい。

 そしてだいたい、人を形容すると悪口になってしまうのもつらい。

 

8月8日(月曜) 深夜

 酔うとすぐに記憶をなくす友人Tの、「最近、(飲み会に)行っても行かなくても一緒や!」という言葉に思わず笑ってしまった。

 かくいうぼくも、深酒するとすぐに記憶をなくしてしまう。アルコールが麻酔薬であることを実感するひとときである。

 先日も職場の飲み会の翌日、同僚の女性から指摘された。「昨夜の名倉さん、メチャクチャなこと言ってたよ」

 自分ではずっと平静を保っていたつもりだったので、メチャクチャなことって何なのか彼女に尋ねてみたら一蹴された。

 「…そんな恥ずかしいこと、言えるわけないでしょ!!」

 ああー、ぼくは一体なにを喋ってたんだろう。ヌルヌルオマンチョとか言ってたのか!?

 いや、恥ずかしいことというのは人生哲学とか恋愛論とか、そういうことを真剣に語っていたに違いない。うん、きっとそうだ。

 酔ったときの言動を指摘されると顔から火が出そうなことが多いけれど、それがあまりにも恥ずかしい内容だと、周囲も恥ずかしくて指摘できないから好都合ですな。周囲から指摘されなきゃ、ぼくにとっては「喋ってない」のと同じことである。自分の記憶にも残ってないんだから。

 今後もこの路線でいくことにしよう。シラフのときに「心のどこか」で思ってることって、酔っ払うと喋ってることが多いみたいだし。

 よーし、今からリハーサルだ。もしゃもしゃクンニ、にょっきり快楽棒、秘密のむき栗、ぬるぬるラブホール! 言えるものなら言ってみやがれ!!

 …と、さっきから独りでブツブツつぶやいていたら、ふと我に返って。真夏の夜の現実。

 

8月7日(日曜) 深夜

 ちょっと事情あって実家に帰ってました。

 ちなみに事情というのは、「自分宛の郵便物が実家にたまっていたから」というショボい事なんですが、それはさておき。

 実家の近くのロードミラーをふと見たら、すごく懐かしいものに遭遇した。

 ミラーの下のほうに白い染みが2つ付いているのがお分かりだろうか。

 これはぼくが小学校3年生の頃、当時友人だった山本君と一緒にミラーによじ登って、チューインガムをなすりつけた跡である。あれから二十余年経った今でも、まだ同じように残っていたとは…。なんだか申し訳ないような嬉しいような、妙な気持ちになった次第でありまして。

 ちなみに2つの染み、左側の小さいほうが山本君のもの、右側の大きいほうがぼくのものである。どうしてぼくのほうが大きいかというと、当時、噛み終わったガムを捨てるのが勿体なくて、どんどん新しいのを口に放り込んでいたから。そのせいで巨大なガムの塊になっていたから。

 噛み終わったガムはその都度ちゃんと捨てていた山本君と、勿体ないからと捨てずに噛み続けていたぼく。

 その違いが二十年以上経った今も、ロードミラーに残り続けているのだ。

 噛み終わったガムを捨てていたビッグな山本君は、その後、某劇団に入って広く活躍しているらしい。一方、ガムを捨てなかったスモールなぼくは、こうして細々とショボい人生を送っている体たらく。

 そしてぼくは今でも、噛み終わったガムを捨てずに新しいのを追加している。

 まるで現代版「グリム童話」のようなエピソードですな! 噛み終わったガムを捨てる捨てないの話だけど、それを言えばグリム童話だってまァ。

 

8月6日(土曜) 深夜

 職場で他部署の人と打ち合わせをしている最中、ブッとおならが出てしまった。うわっ、やってもうた!!

 しかしピンチに陥ると咄嗟の機転が利くものである。そのときぼくは、気がつけば直後、こんな言葉を発していたのだった。

 (ブッ。←おならの音)「…ブワーッと行きましょうよ、こういうのは! うんうん!!」

 「ブッ」というおならの音に引き続いて、同じ音質の声を発することで、おならの音を声だと思わせようとしたのだ(ネタだと思われそうだが本当の話である。人間せっぱ詰まると、自分でも驚くような行動をとるものだと我ながら感心する)。

 実は以前にも同様のことがあった。

 そのときは咄嗟に靴を床にこすりつけて、おならを靴の音だと思わせようとしたのだが、音質があまりにも違いすぎて何のカムフラージュにもならなかったのだ。ひょっとすると、当時の苦い思い出がぼくの潜在意識に残っていたのかもしれない。それで今回は、「声帯を用いて模擬音を発するんだ!」という緊急命令が脳から発せられたのではないか。

 ただ、これでうまくカムフラージュできたかどうかは不明である(相手には何も指摘されなかったけれど、知ってても言わないのが常だろう)。おまけに「ブワーッと行きましょうよ!」 なんて発言は文脈と全く噛み合っていなかったものだから、相手から明らかに怪訝な顔をされてしまった。

 冷静になって考えると、ぼくはどう思われていただろう。

 「会話中におならをするうえ、とつぜんブワーッとか言う人」

 余計な機転をきかせたせいで、失わなくていいものまで失ったような気がしてきました。

 …まァいいや。しょせんはぼくだ。こうして自己評価と他者評価が近づいていくんでありましょう。

 

8月5日(金曜) 超深夜

 会社帰りに散髪したので疲れたのか、帰宅したら不覚にも、そのまま深夜4時まで「仮眠」してしまい。

 で、さっき慌てて飛び起きて(べつに何の用事もないのだけど金曜日ですから)、冷蔵庫からビール取り出して。

 深夜4時半から酒を飲み始める、この妙な感覚。いや、「深夜」ではなく「早朝」から飲み始めているんだと考えよう。

 罪悪感こそ、最高の肴であります。

−−−

 ところで本日、『映画の見方がわかる本』という本(町山智浩・洋泉社)を読んでいたら。

 あの有名な「時計じかけのオレンジ」について解説してある箇所にこんな記述が。

「時計じかけのオレンジ」とはコックニー(ロンドンの下町言葉)の言い回しで、何を考えているかわからない変人を指す。「あいつは時計じかけのオレンジみたいだ」というふうに使われる。

 ありゃ、そうだったんですか。

 小生こんなこと露知らず、てっきり「蝙蝠傘とミシンが手術台で偶然出会った」ような、前衛的なタイトルなんだと思って有り難がってました。で、「よく分からない言葉の組み合わせって、かっこええのう」と独りごちておったわけですが。

 なんのことはない、英語の単なる慣用表現みたいなものだったとは。

 こう考えると、我が国で使われている慣用表現にも、外国人が聞いたらよく分からないだろう言葉がたくさんある。

 "Aging is greater than hexagonal pattern"なんてなタイトルの映画が海外で公開されたら、それこそ実験映画のように思われるんではないか。「どうせわざと小難しくした面倒くさい映画でしょ」みたいな先入観で。だけど実際の意味は「亀の甲より年の功」。ああー、単なる老人映画でしたか! と。

 いやまァ、ことわざや慣用句を直訳したって始まらないワケではありますが。それをいったら、「時計じかけ〜」だって立派な直訳だろう。

 でも、ここで変に意訳して、『何を考えているかわからない変人』(キューブリック監督)なんてタイトルで公開されていたら、日本ではここまでヒットしてなかったことでしょう。というか、「その邦題だけは頼むから勘弁してくれ!」と懇願してるキューブリック 監督の顔が目に浮かぶ。

 映画の邦題は面倒だからいいですね。

 

8月4日(木曜) 深夜

 少し前、目覚まし用に「電波時計」というのを購入したのだが、おかげでエラい目に遭っている。

 というのも、この電波時計。こちらの意志とは関係なく「正しい時間」を自動的に電波キャッチして、瞬時にして時刻合わせしてしまうのだ。

 今までのぼくは、時計はすべて1分進めて使うことを前提に生活が成り立っていた。しかしここに電波時計が闖入すると、さまざまな支障が生じてくるわけでありまして。

 というか、それ以外の時計がすべて1分進んでいることを意識してしまうのが最も手痛い。「正確な時間だと思い込んでいながら実は1分進んでいる」からこそ、保険としての1分間が生まれるのであって、1分進んでいることを意識してしまっては、時計を進めている意味がなくなってしまうんである。

 おかげで現在、電波時計が電波を受信できないよう、部屋の隅っこに置いたり、アルミホイルで包んだりして四苦八苦しております。もちろん1分進めて。

 ちなみに、ぼくが使っている腕時計は「生じる時間誤差が従来の十分の一レベルで、十年間電池交換しなくても動き続ける」という代物なんですが。

 この腕時計を買うとき、店主に頼んで1分進めてもらいました。笑われてしまったけれど、おかげで「1分進んだ状態」を正確にキープし続けているので、非常に快適な生活を送っております。 この時計を買って本当によかった。

 皆さまも電波時計には十分ご注意くださいませ。買ってからがトンデモなく大変ですよ!!

−−−

 さて本日、Go smoking に書いている連載コラムが更新されてます。

 今回のテーマは「タバコ警告メッセージの今後」です。

 最近、タバコの警告表示がグッと大きくなりましたが、その内容は「依存が生じる」「肺ガンの原因となる」といった、耳にタコができそうなものばかり。しかし、こういう当たり前のことにこそ意味があるんではないかと思い、代わりにいろんなメッセージを挿入してみたレポートです。

 よければご覧くださると嬉しいです。

 

8月3日(水曜) 深夜

 「無人島に一つだけ持参できるとしたら何を持っていくか?」という話題になることがある。

 話のネタとしてはかなりベタで、もはや古典の域に達している感もあるが、訊いてみると十人十色の回答で結構おもしろい。

 で、先日もこの話題で雑談していたところ、同僚のWさんいわく。

 「私は何といってもフトンやね、うん」

 Wさんによれば、無人島に行ってまず直面する問題は睡眠だろうとのこと。しかしフトンは自分で作れない、かといって小枝を集めた寝床なんかで眠るのは真っ平ごめんだ、したがって自分はフトンを持参するというワケである。

 なるほど一理はあるが、その他の面々の答えは「気に入りのぬいぐるみ」とか「紙と鉛筆」とか「たっぷりのウイスキー」とかなのに、Wさんはフトン。そもそもロマンのある話題なはずなのに、一人だけ生活感あふれているのがなんとも可笑しい。

 無人島行きの船にて、他の人たちはぬいぐるみとかウイスキーとか抱えてる中、Wさんはフトンを背負っているんでしょう。こうでなくちゃ!

 いやまァ、「チャッカマン」とか「カロリーメイト」とかいう回答も出ていたんではありますが。無人島行くのにチャッカマンですか。

 ちなみにぼくは、無人島にはメガネを持参することに決めております。メガネがないと、どうにもこうにも。

−−−

 こういうとき、「アタシは澁澤龍彦さんの全集を持っていく…かな」とか言い始める人がいると、ゲンナリ発作で死にそうになりますな。

 澁澤龍彦はいいから、鍋を持ってけ、鍋を!!

 

8月2日(火曜) 深夜

 本日の掲示です。近所の民家にて。

 軒先の植え込みなどではよく見かける注意書きだけれど、自転車置き場にあると妙な感じである。

 こんなところにフンをしたがる犬も、こんなところにフンをさせる飼い主も、こんなところにフンをされる家主も。どうなってんだ。

 そういや以前、民家の前に干してあった靴に「犬の糞尿禁止!」と掲げられていて笑ったのを思い出しました。

 靴の中にフンをされても、同じ場所に靴を干し続ける無駄なガッツ。こじんまりした不屈の精神。

 

8月1日(月曜) 深夜

 後輩の書いたレポートを添削することになった。

ぼく:「だいたいOKだけど、もう少し論旨を明確にしたほうがいいかも」
後輩:「どういうふうに直せばいいですか?」
ぼく:「そうやねえ…。全体的にこう、内容をシャープにするというか、輪郭をはっきりさせるというか」
後輩:「すみません、よく分からないです」
ぼく:「つまり、全体の流れみたいなのをこう、グッとさせるみたいな。そんな書き方をね、こう。なんとなく」
後輩:「は、はァ…」

 いま思い返すと、まったくヒドい添削をしてしまったものだが(明確じゃないのはオマエの指導のほうだ!)、書き直してきたレポートを再読したら、たしかに「なんとなく輪郭がシャープに」なってました。えらい!!

 ええと小生、後輩に「自分で考える力」をつけてもらいたいと考えて……。

−−−

 そういや学生時代、家庭教師のバイトをしていたときのこと。

 生徒がしょっちゅう、「この英単語どういう意味?」と尋ねてきた。もちろんぼくにも分からないので、その度に厳しく指導した。

 「まずは辞典を引きなさい。すぐに答えを聞いちゃあ、自分の力にならないよ!!」

 数学の問題の解法を尋ねられたときは、さすがに辞典を引けとも言えないので、さらに厳しい指導を行ったものだ。

 「すぐぼくに尋ねるんじゃなくて、まずは学校の先生に訊いてみること! 先生とコミュニケーションをとることも勉強なんだよ」

 おかげでこの生徒は、家庭教師(=ぼく)の力をほとんど借りることなく、期末試験に合格してくれました。

 能無いタカは爪のないことを隠す。これがぼくの数少ない処世術であります。

 …だから何をやってもダメなのか。

 


およそ番目です。

   2005年 7月のプチ日記 

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