2005年10月のプチ日記

10月31日(月曜) 夜

 洋式ホテルの風呂がいまだに大の苦手だ。

 トイレと陸続きという気持ち悪さもさることながら、あの洗い場のない浴槽。

 いったいどういうつもりなのか? 人を馬鹿にするのもいい加減にしろ! …と使うたびに腹を立てて、こんなことで寿命を縮めていることにますます腹が立って、ますます短命化がすすんでいるような気がする昨今。

 それはさておき、まずは小生がどのように洋式バスを使っていたかを書かせていただく。

  1. 浴槽いっぱいにお湯を張る。
  2. 勢いよく飛び込みたくなるが、お湯がトイレにあふれるので、ゆっくり浴槽に入る。
  3. せっけんで体を洗う。湯船は「せっけん風呂」になる。
  4. 映画みたいでちょっと嬉しい。ひとりで片足だけ突き出してみたり。
  5. 髪を洗い始めると同時に、湯船のお湯を抜く。
  6. でも、シャワーしながら髪を洗っているから、水位がなかなか下がらない。
  7. ってことは、いくらシャワーしても、膝から下はシャボンがついたまま。
  8. 早く水位を下げようとしてシャワーを止めたら、みるみる体が冷えてくる。
  9. たまりかねて再びシャワーを出すも、案の定、水位が下がらなくなる。
  10. どうしたらええんじゃい! と癇癪を起こしつつ、片足ずつ上げてシャワーしようとして転倒。

 こんな屈辱に耐え切れず、近頃ではもっぱら「せっけんもシャンプーも使わず湯船にチャポンと浸かって終わり」という、なんともシンプルな入浴に終始している次第でありまして。畜生、金払ってホテル泊まってるのに、なんで我が家よりも倹約せねばならないのだ。

 洗い場は日本民族の誇りであると思う。ホテルに泊まるたび、にわか国粋主義者になっております。

 

10月30日(日曜) 深夜

 ハロウィン、ですか。

 カボチャをくりぬいて並べる風習だけは、なぜか日本でも定着しつつあるようで。文化や信仰なんてことは全く関係なく、ちょっと面白そうだったり商売になりそうだったりすると、どんな習慣でもアッという間に浸透してしまうイイカゲンさ。こういう部分は日本人の長所だと本当に思います。日本人でヨカッタ。

 それはさておき。

 本日、京都・高倉通りを歩いていたら、カボチャのお化けがいくつも出品・展示してあった。これが妙におかしかったので、寸評とともにいくつか紹介してみます。

クマのプーさんのお化け。上手だけど、ちっとも恐くない。
 
なんのキャラか分かりません。「くしゃおじさん」のお化けでしょうか?
 
ロングヘアの生えたお化け。たしかに恐いです。中でロウソクを灯したら引火しそうなところも。
 
アンパンマン。…いや、カボチャマンと呼ぶべきか。
 
一瞬何かと思えば、よく見ればアニメの鳥のキャラ(失念)。黒ペンで縁どりしているのが涙を誘います。
 
うわ、気持ち悪っ!! …カボチャ本来のキズをうまく用いた傑作ですな。
ドラえもんらしいが、目が抜けていてグロテスク。計画性欠如の見本。
 
ひょっとしてミッキーマウスですか。もしそうなら、お化けより恐ろしい「ディズ二ーからの商標警告」がくるかも。
 
これも何のキャラか分からないけど、気持ち悪さだけは十分です。お化け合格!
ミッフィーお化け。…単なる手抜きに見えるのはぼくだけでしょうか。ディック・ブルーナが見たらどう思うだろう。
 
ベーシックな仕上がりですが、傍らのミニお化けがミスマッチすぎ。 おまけ:風船を用いたハロウィン。なにか間違ってるような気もするけどいいか。

 そういや、カボチャをくり抜いてお化けを作るのって、アメリカで広まった習慣らしいですね。

 物好きな方々は、「食べ物を粗末にするな!!」「カボチャがかわいそうだ!!」「風船で作れ!!」と抗議、禁止運動を展開なさるのも一興かと。

 欧米にはクジラ禁止の借りがありますからねえ。ぽくぽく。

 

10月28日(金曜) 深夜

 野暮用で実家に帰っておりました。

 実家で過ごしていると退屈なので、幼少時の写真など見て時間をつぶしていたわけですが。

 幼稚園時代や小学校低学年時代の自分を見て気が抜けた。

■幼稚園時代の小生
ゴミやボロ布を全身にくっつけて
■小学校一年生当時の小生
みかんのネットを頭にかぶって
■小学校三年生当時の小生
珍しく普通だけど雪だるまが不気味

 どれもこれも、ことごとく妙なことをしてるショットばかり。まともに写ってる写真がほとんどないのだ。

 写真を撮られるとなると必ず妙なことをしていた自分も自分だが、こういう写真しか残さない親も親だと思う。

 血は争えないということでしょうか。

−−−

 でも、こうして見るとちょっと可愛いですな小生。まァ誰だって、小さい頃は可愛いんだけど。

 皆さまに可愛がってもらおうという魂胆もこめつつ、上の写真をアップいたしました。ぐひひひひ。 

 

10月27日(木曜) 深夜

 いまやすっかり「世界の〜」と冠されるようになったビートたけし氏。

 過去の作品を再評価する意味においても是非、『たけしの挑戦状』をプレステ2に移植してほしいものですな。

 プレステ3のソフト第一弾も『たけしの挑戦状』で…どやっ!! もちろん専用マイク付属で。

−−−

 本日の南大門です。

 えらくショボい南大門もあったものだなァ、とビックリして写真に収めた一枚。こんなのを門と言われても。

 …ふと後ろを見たら、「南大門」という店が建ってました。なあんだ。

 ぼくの日常は、こういう小さなガッカリの積み重ねであるような気がします。小さなガッカリを大切にしよう!!

 

10月26日(水曜) 深夜

 職場でバスローブのことが話題になった。

 いいホテルに泊まるとバスローブが用意されていることがあるけれど、どういう風に着ればいいのか分からなくて困るのだと。

 そこで各人、どうしているか自己報告してみたところ。

 ちなみに最後のはぼくの説。バスローブなど着たことがないくせに見栄を張り、みんなの意見を取り入れた「自説」を展開したのだ。いつもこうしてるよ、てな顔をして。「ま、手足を軽く拭いたら、そのままガバッと羽織っちゃいますね」なんてって、まことしやかに。

 で、ネットで調べてみたところ、どうやら体を拭かずにそのまま羽織る「バスタオルの代わり」説が正解のようだった。ええー、そんなん寝冷えするやんけ! メチャクチャやがな!! アホこきさらせ。

 …と憤慨しながらさらに調べてみたら、なんのことはない。バスローブで体を乾かしたのち、パジャマに着替えて就寝するとのことだった。

 なあんだ。結局のところ、体を拭くのが面倒だから「タオルを着衣型にする」という暴挙に出ているだけではないか。そのくせ、髪の毛とか手足は濡れたままになってるし。それに股間などはどうなるのか? バスローブを着た上からチンコを揉んだり、マンコを擦ったりしろというのか。

 ちゃんと全身の水を吸い取るためには、フード付きのつなぎタイプのバスローブ(要するにもじもじ君みたいなやつ)にしろと猛省を促したい。

 すみません、悔し紛れに書いてみました。ああ、バスローブ着てみたいなあ。

−−−

 ところで、ちょっといいホテルに付いているタオル類って、どう使い分ければいいのか分かりません。

 やたらと大きいタオルケットみたいなやつは重くて使いにくそうなので、「普通のバスタオル」で体を拭いていたのだが、どうやらこれ、「フェイスタオル」なんだそうで。おまけに、ホテルでぼくが顔を拭いていたタオルは これ、「ハンドタオル」なんだそうで。愕然。

 ホテルのバスタオル、我が家のタオルケットなり。
 ホテルのフェイスタオル、我が家のバスタオルなり。
 ホテルのハンドタオル、我が家のフェイスタオルなり。

 そして我が家のバスタオルは、ホテルからテイクアウトしたフェイスタオルなり。もういやだ。

 

10月25日(火曜) 深夜

 我が国では「謙譲の精神」が美徳とされている。

 謙譲とはこれ、すなわち「へりくだりゆずる」こと。「へりくだり」とはこれ、すなわち「他をうやまって自分を卑下する」こと。(広辞苑第五版より)

 素晴らしいことである。というか、これならぼくも大得意である。

 他人を敬いながら自分を卑下する、というスタイルを突き詰めれば、「他人は全知全能の神様みたいな存在、自分は無知無能のパンくずみたいな存在」ということになる。するとどうだろう。

 たとえば厄介な仕事を任されそうになったなら、「こんな大切な仕事は私ごときが担当すべきではありません」。べつに大きな仕事じゃなくても、たとえば部屋の掃除なんかにしても、「私など掃除もロクにできない無知無能の存在です」「全知全能の貴殿であれば掃除なんて朝飯前です」と。

 謙譲精神を極めた者は、そもそも仕事になど就きやしないだろう。「私のようなパンくずが社会に貢献できるはずがありません!」「自分の力で生活するなんて、そんな大それたこと……」と。自活できると思っている時点で、自己卑下がまだまだ足りないのだ。

 したがって、謙譲の人にできることは「寝ること」と「食べること」だけである。謙譲を極めれば、人生なんにもしなくていい。おっしゃ!!

 食べるという行為は一見おこがましいように思えるけれど、謙譲の人にとっては「絶食などという強い精神力が要求されることが私などに務まるはずがありません」となる。生きるという行為のおこがましさについても同様、「自殺などという強い精神力が要求されることが私などに〜」と。

 これが原始時代であれば、自然の摂理で飢え死にしてオシマイとなるところだが、なにしろ今の社会は生活保護などの福祉制度が充実していますから。今の日本に「乞食」は存在しないことになっているから、本人が頼まなくたって援助の手が差し出されることだろう。

 謙譲の精神を極めた国家がたどり着くのは、「国民全員が生活保護受給」という桃源郷である。

 じゃあ社会福祉の費用は誰が払うのかって? それは謙譲の精神に欠ける一部の「悪者」たちであります。

 悪いのはヤツらだ! 一刻も早い殲滅を!! あれ??

 

10月24日(月曜) 深夜

 芸術というのは誠にもってよく分からないものでありますが。

 いままでの人生で最もよく分からなかった作品がコレであります。東北の某教育館にて。

一見なんてことのない油絵ですが
 
シグネチャを見ると… えっ!?

 ちなみに、ロートレックの綴りは"Lautrec"である。おまけにロートレックの画風と全然違うし。いったい誰がなんのために!?

 「後味の悪い不可解さ」を観客に残し続けるという点で、素晴らしい芸術と言えるかもしれません。

 

10月23日(日曜) 深夜

 100円ショップまでサイクリングした休日。

 で、レンジ用ご飯をまとめ買いしたのち帰途についていたところ、途中でシップスの前を通りがかった。そして思い出した。あ、そうだ、ここの長袖シャツで欲しいやつがあったんだった!

 しかし、手には100円ショップのレンジご飯。うーん、店に入るの恥ずかしいかなァ。

 …と一瞬思ったのだが、再び買いに来るのも面倒なので、「旅の恥はかきすて」と自分に言い聞かせて、当たり前のように買い物してきました。

 おかげで今回は、ちょっといいことを発見。100円ショップの袋を提げていると、店員がまったく声をかけてこないのだ。

 ぼくは店員に声をかけられるのが嫌いなんである。

「こちら、長袖のニットになります」(言われんでも分かるがな!!)

「サイズ違いもございますので」(欲しかったらこっちから頼むがな!!)

「こちらの商品、イチオシですよ」(だったら他の商品は非推奨品なのか!?)

 だが、100円ショップのレンジご飯を手にしているだけで、こういった店員にアルカイックスマイルを浮かべる手間から解放される。

 今後はスーツを新調するときも、レンジご飯を買った後に出向くことにしよう。

−−−

 ちなみに、本日シャツを買ったら、えらく立派な手提げカバンをくれました。なんでもシップス31周年記念なんだそうで。

シップスかばん & レンジご飯

 なあんだ、シップスって自分と同じ年だったのか。タメやんけ、タメ。

 だったらますます、レンジご飯とか手に提げて入店してもいいよね。

 

10月22日(土曜) 夜

 「タバコ・ロード」を見つけました。四条河原町の路上にて。

 ちょうどアスファルトの割れ目を埋める形で、吸殻が「川」を形成している。割れ目にぴったりと入り込んだ吸殻は、風が吹こうとも雨が降ろうとも、はたまた車が通ろうとも、長きにわたって姿を保ちつづけるのだ。

 隆起した路面は大自然のたくましさを表現し、連綿と連なる吸殻の川は恒久の歴史を予感させる。裂けたアスファルトは抗いがたいエントロピーの原則を暗示し、そこに存在し続ける吸殻は、エントロピーへの人類の挑戦を暗示する。おお、なんと壮大な芸術であろうか!!

 …いやまァ、ただの吸殻なんですけれど。

 職場のパソコンの壁紙にしようかとも考えたけど、「奇をてらいたがってるヤツ」だと思われたら嫌なのでやめておこう。

−−−

 ちなみに、小生が現在使っているパソコン壁紙はこのようなものであります(OCNのサーバ容量が残り少ないのでジオにアップしました)。

※デスクトップPC(サイズが大きい): http://www.geocities.jp/otearai/tetrapod.html

※ノートPC(サイズが小さい): http://www.geocities.jp/otearai/wall.html

 いずれも自分で撮った写真です。著作権フリーなのでよろしければ。素材屋サイトを目指します。(って、誰もこんなの使いませんか。すみません)。

 自分ではどちらも猛烈に気に入っているんですが、周囲の者からは口を揃えて「なにこれ?」と言われてます。

 

10月21日(金曜) 深夜

 寒くなってきたので、さっそく寝冷えして風邪気味です。

 昼休みの混み合う社員食堂にて、なみなみとお茶を注いだコップを手に食卓まで歩いていたら突然、大きなクシャミをやらかしてしまって。

 中身のお茶が飛び散り、前にいた女性社員のスカートにかかってしまって。

 とっさに「大丈夫ですか!?」と声をかけたものの、ぼくのほうは鼻水がビローンと垂れた状態で。

 女性社員は軽く会釈したあと、足早に去っていきました。人生に無力感を抱くひととき。

−−−

 そういや、もっと困るのが、満員電車の中でクシャミを催したときである。

 盛大にやらかして唾や痰が乗客のバッグに付着したら大変なので、たいていはそのとき読んでいる本で口元を覆うようにしておるわけですが。

 先日も電車でクシャミを催して、とっさに手持ちの文庫本で口元を覆ったのだが、そのとき大切なことを忘れていた。読んでいた本が知人に借りたものだったんである。

 気がついたときには、ページの見開きに唾と痰がベットリ。こんな惨状を周囲の乗客に見られたら恥ずかしいので、そのまま本を閉じてカバンに仕舞ったところ、ページが糊付けされたようにくっついてしまい。どうってことのない文庫本でオナニーしたみたいになってしまい。

 どうしようもないので、けっきょく同じ本を購入して持ち主に返却したわけですけれども。

 借りた本が汚れたからといって、こっそり買い直して返却するような「金玉が小さい人間」だと思われるのも癪である。なので、借りた本と同じようなコンディションになるよう、チマチマと表紙をこすったり傷をつけたりして。結局、サンドペーパーまで使ってカムフラージュして。

 金玉の大きい人間を演じるのも大変なのだよ、というスケールの大きいお話でした。 そうなのか?

 

10月20日(木曜) 深夜

 最近彼氏ができたという同僚A子さん(仮名)がこんな話をしていた。

 「彼氏、街中でもベタベタしたがるんですよ」
 「でも私、そういうの嫌いだから普通にしてたら、こないだ激怒されちゃって」
 「もっとオレに甘えろよっ!! …て」

 いいなあ、この彼氏。

 いきなり激怒するなんて一見たくましいけれど、言ってることは「オレに甘えろ」。情けないことこの上なし。

 だいいち、こんなえらい剣幕で怒られたら甘えるどころではないだろう。それとも彼は、どんなことも「力」で解決してきたのか。

 「オレに甘えなかったらグーで殴るぞ」
 「は、はい! 甘えます、甘えますからっ!!」

 まるでコントであるが、しかし考えてみたら、「オレと付き合わなかったら殺すぞ」なんつってるストーカーの皆様はこれと何も変わらないですね。

 「オレのことを好きにならなかったら殺すぞ」

 普通に考えたら、自分のことを殺そうとするような人を好きになるワケがないのだけれど、こういう常識さえも吹き飛ばしてしまうストーカーの皆さまの自己中心性には頭が下がる思いです。

 ギネスブックに「自己中心性」で記録申請してみたらどうでしょうねえ。

−−−

 さて本日、Go smoking に書いている連載コラムが更新されてます。

 今回のテーマは「タバコを一挙に吸ってみる〜剛の者になりたくて」。大層なタイトルですが、つまるところ、何本まで同時にタバコを吸えるのか挑戦してみたレポートです。

 本文ではもっともらしい前フリを書いてますが、酔った勢いでやってしまった莫迦の愚行です。 よければご覧くださいませ。

 

10月19日(水曜) 深夜

 仕事帰り、寺町通りをブラブラほっつき歩いていたところ。

 ある店の前で、修学旅行生たちが騒いでいた。

 「おー、これ見ろよ」
 「ハードゲイのマネキンだよ!!」
 「ほんとだ! レイザーラモンHGだ!!」
 「こんなのがあるんだねえー」

 なんやそれと思って見てみたら、こんなモノが店頭に鎮座していたのでした。

 ええとこれ、「レイザーラモンHGのマネキン」ではないだろう。ポーズも「フゥー!」どころか、えらく普通にリラックスしてるし。

 どんなマネキンでも、「あの」帽子とサングラスとチョッキさえ着用すればこういう風になる。たとえバーバパパ人形であっても、「あの」帽子とサングラスとチョッキさえ身につけたら、アッという間に「バーバパパHG」になるんじゃないか。


※参考映像(本文の内容と直接関係はありません)

 分かりやすいビジュアルで売ってる芸人さんって、あまりにも簡単にコピーされてしまうので難儀ですな。

−−−

 ちなみにレイザーラモンHG氏、ぼくと同じ出身大学である。

 なので事あるたびに、「HGはオレの後輩なんだよ」と自慢しているのだが、相手の反応はたいてい「はァ…」という困惑である。

 母校から有名人が出るのってそれなりに嬉しいものだけれど、HG氏の場合、微妙な感じでなんともかんとも。

 

10月18日(火曜) 深夜

 本日の学派。

 本屋で見かけるたびに、つい立ち止まって見てしまうので恥ずかしいです。

−−−

 ところで本日、ツタヤで映画を借りようと思ってカウンターに持っていったら、中身のDVDが空っぽだった。

 え!? どういうわけ?? 

 すると店員いわく、

 「おそらく万引ですねえ…。申し訳ありませんが、レンタルできないのでご容赦ください」

 DVDのボックスって、専用の器具を使わないと開けられないように工夫されているはずである。なのにどうして??

 そして直後、ぼくはほとんど反射的に尋ねてしまったのでした。

 「どうやったら、こんなの万引きできるんですか!?」

 言ってしまってから気がついた。こんなこと、店員に面と向かって訊くことじゃあない。莫迦かオレは。

 店員から「そういったことはお教えできかねますので…」と冷静に返されたのも痛々しゅうございました。そりゃそうだ。

 

10月17日(月曜) 夜

 少し前、テレビ番組で「野菜嫌いの子どもに野菜をおいしく食べさせる方法」が紹介されていた。

 どういうものかといえばこれ、ピーマンやニンジンにチョコレートエキスを高圧で吹きつけて、「チョコレート味の野菜」にしてしまうというもの。ご覧になったかたもあるだろうが、栄養分はそのままで、すっかりチョコレート味になってしまうらしいからすごい話である。

 ぼくはお茶菓子の落雁(砂糖を固めたようなやつ)が大嫌いなのだが、この方法で「明太子味の落雁」にしてしまえばいいんでしょうか。

−−−

 しかしこの方法。

 これだけ手間とお金をかけても、肝心の「野菜の味ぎらい」はちっとも直っていない。本当に野菜の味を好きにさせるためには、もう少し違ったアプローチが必要ではあるまいか。

 そこで思い出すのが、ビールを美味しいと思うようになった過程である。当初はビールなど苦くてまずいだけだったのが、「酔い」という快刺激と連合されることによって、次第に美味いと感じるようになってきた気がする。

 ピーマンだってニンジンだって、酒に浸すなりシャブに漬けるなりすれば、あっという間に美味しく感じられることだろう。そしてしまいには、ニンジンを見ただけで飛びつくようになったりして。(ちなみにこの手法は、注射ぎらいのお子さまたちにも応用できます)

 シャブは違法だからさておき、落雁は今後、焼酎漬けにして食べるよう心がけようと思います。

−−−

 というか、ニンジンしか食うものがなけりゃ、どんな子どもだってニンジンを食うだろう。

 ただ、隣にハンバーグが用意されてるのに「ニンジンも食え」というのは大人の理論なわけでして。だったら最初から、ハンバーグにニンジンを混ぜ込んでおけばいいのに、というのが小生の思うところです。

 人類が生まれ持っている味覚は、たまにしか御馳走にありつけない原始生活を想定してチューニングされているのであって、毎日ハンバーグを食べられるような現代生活を過ごしていたら、おかしなことにな るのが当然だろう。

 大人はこのことを情報として知っているから理性でセーブしているけれど、子どもに理性を求めるのは酷というもの。

 ええとほら、猫とかでも、固形飼料と高級缶詰とを別々に与えたら缶詰しか食わなくなるから、よーく混ぜてから与えるんでしたっけ? 子どもは猫よりは多少頭がいいから、簡単には選り分けられないようするのが親の配慮ではないかなァと。

 唐突に当たり前の話をしてすみません。こんなこと、ぼくなんかに言われたかないですね。

 

10月16日(日曜) 夜

 本物の根ワサビってどんなに美味しいんだろうと思ったら、チューブ入りのやつとあんまり変わらなくて心底ガッカリ。

 ワシは粉末ワサビでも十分満足じゃ。

−−−

 …とか書いてみたはいいけれど、本当にどうでもいい話ですねえ。すみませんねえ。

 ただ、長らく日記ばかり書いているとたまに思う。「どうでもいい個人的な垂れ流し」を多くの人が読んでくれるのって、罪悪感の背後に妙な嬉しさがあるんではないかと。

 たとえば「ポルノ画像を載せる」「おもしろニュースを紹介する」といった内容の日記がいくら人気を博したところで、読者の興味はあくまでその「情報」であって、書き手そのものではない。こういうサイトは数多くの読者に閲覧されるだろうけれど、書き手にはかなりのボランティア精神が要求されるのではないかと思う。

 一方、身辺雑記や自分語りしかしない日記はあまり人気を博さない傾向があるけれど、書き手としては「自分に興味を持ってもらってる」という稚拙な自己愛が満たされる喜びがあるような気がする。ぼくの日記などもこの手の代表なので、気持ちはよく分かるつもりである。

 需要と供給はよくできたものだなと感じるが、そうであるなら、書き手としての理想は「身辺雑記しか書いてないのに何故か物凄い人数が訪れる」ような日記になるだろうか。

 「今日はシャツを買いました」
 「今日は夕食にうどんを食べました」
 「最近ちょっと便秘気味です」

 てなことを書いていたら、気がつけば一日あたり何百万人もの人が自分の日記を読んでいるという。芸能人でも有名人でもないのに何故かこんな状態に。

 …実際こんなことになったら、恐ろしくて即刻閉鎖してしまうでしょうな。真の「ホラー日記」。

 

10月15日(土曜) 深夜

 謙虚な人ほど周囲から好かれる。

 いつも控えめで、自分の利益よりも他者を大切にする。決して出しゃばらない。…といった人であればあるほど、高く評価される風潮がある。

 でも考えてみりゃあ、この世の中に生きている人々は皆、すさまじい精子競争を生き残った面々なんである。何千万匹という他の精子たちの追随を振り切って、我先にと卵子に飛び込んだ者のみが、今こうやって生きているわけである。

 卵子を目前にしながら、「お先にどうぞ」と他の者に席を譲るような謙虚な精子は、そのまま消えてしまうのだ。

 それに生まれてからだって、本当に謙虚であろうとするなら、植物や動物を食べるなんて真似はできやしない。「私はいいから小麦さん、あなたこそ生きてください」てなもんである。

 これだけ「謙虚」が流行しているのは、みんなが謙虚だったら自分も暮らしやすい(=生存しやすい)からであって、まかり間違っても自分より他者を大切にしているわけではない。だいいち、生命という存在自体が、謙虚とは対極にあるものなんだから。

 謙虚は人のためならず。謙虚すなわち安全牌。

 謙虚な人を見ると気分がよくなるのは、自分と同じ生存戦略を用いている人がいることを確認して安心できるからではないか。謙虚じゃない人を排除しようとするのは、彼らが登場したら、せっかく自分たちが築いてきた「謙虚城」が食い荒らされそうだからではないか。

 謙虚というのは、それが善いとか悪いとかじゃなくて、ひとつの方略に過ぎないのだと。このように考える次第でありまして。

−−−

 ちなみにぼくも、謙虚な人だと言われたことが何度かあります。うんうん、この調子だ。

 自分で自分のことを謙虚と言う自己矛盾。 「オレって、すげえ謙虚なんだぜ!!」

 

10月13日(木曜) 深夜

 昨日の日記で紹介した「にこにこ通り」、全国各地にあるようですな。情報くださった皆さま、ありがとうございます。

 とりわけ、Kさんが送ってくださった青森市の「ニコニコ通り」が秀逸。

 このニコニコ通りで実際、殺人事件があったそうです。ひゃあ。

−−−

 ところで唐突にふと思う。

 気がつけば、いろんな通信手段が世にあふれているなァと。

 電話&FAXに始まり、メール、社内メール、掲示板、メッセンジャー、携帯電話、携帯メール、SNS(mixiとか)の諸々メッセージなどなど。

 一昔前には、こんな状況が訪れることなど想像もつかなかったはずである。諸々の文学作品たちも、いまの状況に当てはめると、ことごとくおかしなことになってくるわけでありまして。

 たとえば川端康成の『雪国』。主人公の島村が雪国の温泉地に行き、そこで出会った二人の女性(駒子と葉子)に恋をするけれども、案の定別れが訪れましたとさ…という旅の恥はかき捨て系の話でありますが。これが現在なら、島村が駒子&葉子と携帯のアドレスを交換してどうのこうのと、恐ろしくどうでもいい物語になっていたことだろう。

 あるいは森鴎外の『舞姫』。留学先のベルリンで貧しい踊り子エリスを妊娠させた主人公・豊太郎であるが、仕事の都合で別離しなくてはならなくなり、おかげで正気を失ったエリスが可哀相だな ーと思いながらも帰国した豊太郎でした…という純愛不純話でありますが。これなども現在だったら、その後メールやメッセンジャーで大層ややこしい泥仕合になっていたことは想像に易い。

 そして太宰治の『葉桜と魔笛』。不治の病に冒され余命いくばくもない妹に届いていた大量の恋文を見つけた姉、こっそり読んでみれば病のゆえに破局を迎えたとの旨だった ものだから不憫に思い、恋人になりすまして妹に恋文を書いてみたところこれ、妹が自演自作の恋文を書いていただけの話で、すぐにバレて姉は大恥をかきましたとさ。…というショートコント風の話でありますが、これなんかは現在なら、妹が一人で架空の恋人mixiページを作って「マイミク登録」していたってなところでしょうか。

 ま、やってること自体は、いまも昔もそう変わりませんですね。

 

10月12日(水曜) 深夜

 雑貨屋の「フラン・フラン」(Francfranc)。

 この店の前を通るたびに「腐乱・腐乱」という字が頭に浮かぶのをなんとかしたいものですな。

 ですな、って小生だけですか。

−−−

 百歩譲って、それはまあいいとしても。

 この道路の名前はどうだろう。

 「にこにこ通りで連続殺人事件が発生しました!」
 「にこにこ通りの界隈は異様な雰囲気につつまれています!!」

 …なんてなことにならなければいいのだけれど。

 にこにこ通りが通称であることを祈るばかりです。自分の住所が「にこにこ通り○○番地」になってしまう恐怖。

 

10月11日(火曜) 夜

 連休明けの出勤だけに、忙しく仕事に励んだ一日。

 こういう頑張った日は自分へのご褒美をあげるのが世の常であるから、ぼくも慣習に従って、ディナーを「キャベツと牛肉の野菜炒め定食」と洒落込むことにした。もちろん自作である。誰がなんと言おうと、けっきょくは自分で作った料理が一番美味しい。

 ようし、ご褒美を作るぞ! 今週も一週間、仕事にがんばるぞっ!!

 …と勢い込んで四条河原町のタベルトに足を運び、牛肉、キャベツ、ピーマン、タマネギなどを買い込む。ご飯を炊いていると時間がかかるので、米については「サトウのごはん」である。こうして手抜きするのも、自分へのご褒美と考えれば納得がいく。

 そして帰宅すると同時に調理開始。野菜を刻みながら中華鍋に火をかけ、その合間にサトウのご飯をレンジに入れて、ガーッとやっつけたところ、10分後には「キャベツと牛肉の野菜炒め定食」のできあがり。

 で、さっそく食べようと思って、お皿を食卓まで運んでいたところ。

 うっかり手が滑って、サトウのご飯をカーペットに落としてしまったのでありました(以下、写真参照)。
 

うわっ! ああ!! ご、ご褒美がっ!!
 
せめて表面だけでも…と地道な作業。
 
あまりにもアンバランスなごはんの量にションボリ。
 

 当然のことながら、仕事にがんばる気など霧消いたしました。こんなメシで誰ががんばれるかっ!!

 

10月10日(月曜) 深夜

 連休中はずっと飲んだくれておりました。3日間合計しても5時間ぶん程度の記憶しかない。

 ところで昨日の飲み会の席では、初対面の人と顔をあわせる機会があった。商社勤務のS氏という人である。

 で、とりあえずお互い、軽く自己紹介などしておったわけでありますが。

 ぼく:「どうもはじめまして。名倉と申します」
 S氏:「こちらこそ。Sと申します」
 ぼく:「Sさんは、お仕事はどのようなご関係で…?」
 S氏:「商社です。ウチはおもに飛行機の部品を担当してます」
 ぼく:「…といいますと?」
 S氏:「たとえば○○重工から飛行機用のブレーキを買い付けて、それをメーカーに卸したり」
 ぼく:「はァ、なるほど。いわゆる中間搾取ですね」
 S氏:「……ア、アハハ。まあ、そういうことになりますかね」

 咄嗟にうっかり「中間搾取」なんて口走ったせいで、その場の雰囲気はなんともおかしなことになってしまい。これって考えてみたら、「林業やってます」という人に向かって、「いわゆる森林伐採ですね」などとのたまうようなものではないか。うわー、やってもうたがな!!

 歳を重ねても知り合いの数がちっとも増えない原因が、自分でもなんとなく分かってきました。

 

10月7日(金曜) 夜

 ようやく涼しくなり、長袖シャツ姿の人が多くなってきた日々でありますが。

 駅ホームでこんな女性を見かけた。

 半袖Tシャツ+ニットのマフラー。

 ぼくはファッションにとんと疎いので、ひょっとしたらこういうのが流行なのかもしれませんが。「寒いんだったらまず、長袖のシャツを着たまえ!」と提言したくなるのはぼくだけでしょうか。こういうコトを言ってると、もっさいってことになってしまうんでしょうか。

 いやまァ、雪がちらつく真冬でも「超ミニスカート+ダウンジャケット」といった格好で過ごしている女性たちがいるのは事実だ。快適さばかりを求めはじめたらファッションとしてダメになることも、頭では分かっているつもりである。

 でも、「半袖Tシャツ+マフラー」には動揺してしまう自分。これがオジサンになっていくということなのか。

−−−

 それにしても、女性のファッションは体表の温度差が激しいなァ、とは以前から思っていた。

 ただ、「超ミニスカート+ダウンジャケット」姿の女性は多くても、「ホットパンツ+ダッフルコート」姿の男性はまず見かけない。この違いはなんなのだろう。クジャクのオスにだけ余計な飾り羽があることの逆バージョンみたいなものか。

 このぶんだと近々、タンクトップ・スタイルのダウンジャケットなんかが登場するかもしれませんね。

−−−

 さて、少しだけお知らせです。

 明日、10月8日(土曜日)の夜10時〜10時30分にかけて放映される、インターネット放送局のイグザンプラーさんに電話で生出演させていただくことになりました。番組の途中で、サイト運営とかに関するインタビューにぼくが答える、という段取りになっております。

 DJはエアギターで有名な金剛地武志さん。めっぽう面白い方ですが、口の悪さも一級品なので戦々恐々。

 よろしければ視聴してくださると嬉しいです。喋るのはホントに苦手なので、痛々しい姿を嘲笑していただければ幸いです。

 

10月6日(木曜) 深夜

 職場の先輩Aさんは、海外旅行のたびにアート系グッズのお土産をくださる。

 MoMAで購入したという現代アートのオブジェや、素敵なイラスト入りカレンダー、有名なデザイナーのグラスなどなど。

 Aさんのおかげで、ぼくの職場のデスクは柄にもなく「アートのある光景」になっている。それで先日、「いつもありがとうございます!」とお礼を申し上げたわけでありますが。

 そしたらAさんいわく、「名倉君も NO LIFE, NO ART だからね!!」。

 えっ!? "NO LIFE, NO ART"??

 いや、こういう英語の表現があることは知っている。よくロックンローラーの方々が"NO ROCK, NO LIFE"などと仰っているとおりである。「ロックがなけりゃ人生じゃない」すなわち「ロックなしの人生なんて考えられないね!」てな意味なのだろう(たぶん)。

 しかし、Aさんの言葉は"NO LIFE, NO ART"である。さしずめ「人生がなけりゃアートもない」、つまり「命あっての物種」ってことか。Aさんはぼくに、「アートを楽しみたいなら、命は大切にしなさいよ。飲みすぎや夜更かしはダメよ!」というメッセージを伝えたかったの だろうか。

 おそろしく当たり前のコトのようにも思えるが、意外と世の中の真実が包含された名文句かもしれない。

 NO LIFE, NO ROCK !!

 死んじまったらロックはできねえんだぜ! ロックしたけりゃ不摂生はやめて野菜を喰いまくれ!!

 …なんかこう、ミックジャガーあたりが普通に言ってそうなセリフのような気がしてきました。

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 さて本日、Go smoking に書いている連載コラムが更新されてます。

 今回のテーマは、「煙の重さを計る方法〜映画『スモーク』寸評」であります。 タバコの煙の重さを計る方法などを交えながら、個人的に好きな映画『スモーク』についての寸評を載せてみました。

 シロウトが書いた映画評なんて所詮こんなモン、という感じですが、よければご覧くださると嬉しいです。

 

10月5日(水曜) 深夜

 タイトルは忘れたが、少し前に立ち読みした本に、とある猟奇殺人事件が紹介されていた。

 女性を殺害した男性が、彼女の「膣だけを切り取って」保管していたんだとか。

 え、膣だけを切り取る? どうやって!?

 膣というのはこれ、膣前壁と膣後壁に挟まれた「空洞部分」のことである。小陰唇や大陰唇、あるいは膣壁などを切り取ったというなら分かるが、空洞部分だけを切り取るというのはどういうことか。いくら切り取ったところで、それはただの「空気のかたまり」だろう。

 本気で膣だけを切り取ろうとするなら、膣内の空気を缶詰なんかに密封するしかない。「南極の空気の缶詰」なんかと同じ原理である。

 しかしこう考えると、この世の中のいたるところに「かつて膣だった空間」が存在することになる。街の歩道、デパートの通路、電車の座席周辺……。どこもかしこも、ちょっと前までは膣だったのだ!! 金閣寺の境内だって、かつては細木数子chanの膣だったかもしれないのだ。おえっ。

 …というわけで、猟奇殺人犯の皆さま。膣なんてそこらへんに残骸が浮遊しているのだから、わざわざ女性を殺して切り取らなくたっていいと思いますよ。

 ぼくもこれからは、雑踏を歩くたび、手のひらに当たる空気に膣を感じたいと思います。数秒前まで膣だった場所、おお我が故郷。

 人生ってそう悪くないもんですね。心底の莫迦。

 

10月4日(火曜) 深夜

 近所の寺に張り出されていた、ありがたいお言葉であります。

 人生、逆境も大切なのは分かるけれど、いきなり「家庭教師である」と言われてもなァ。

 それともあれですか。たとえばハリケーンで自宅が壊滅してしまっても、あるいは交通事故で家族全員が死亡してしまっても、心の中で「家庭教師が来はったわ…」とつぶやかないといけないんでしょうかねえ。

 末期ガンを宣告されて、度重なる大手術のすえ生還した人も、やはり口にするんだろうか。「いま思えば、あれは家庭教師やったんやろね」

 というか、なんで家庭教師なのだ。たいてい大学生のアルバイトだし。休憩時間にはケーキとか出たりします。逆境。

 

10月3日(月曜) 夜

 男のたしなみとして蔵書に加えております、『ザ・殺人術』(第三書館)という本より1コマ抜粋。

 「不注意なドライバーの串刺し」と題されたこのイラスト、早い話が周到に仕組まれた暗殺工作である。

  1. 先端が鋭利な鉄の棒を自動車に仕組んでおく
  2. そんなことなど露知らないドライバーが車をバックさせた途端、
  3. 鉄の棒がドライバーの体を貫いて「こら痛いわ!」
  4. …とか言うてる間に死亡しましたとさ

 こんな大層な下準備をするくらいなら(なにしろ車の床に穴を開けるのだ)、普通に鉄砲とかで殺そうよと言いたくなるが、殺人ともなると色々事情があるのだろう。こうやって説明されると、たしかに頓知の効いた殺し方ではある。

 でも、犠牲になった人を「不注意なドライバー」呼ばわりするのはどうなんだろう。運転する前に、こんなことに注意を払うドライバーなどいるんだろうか。それとも世の中では、これで串刺しになったら「そいつァ君の不注意だよ」と一笑に付されてしまうのか。

 皆さまも車をバックさせるときは、串刺し用の鉄棒が仕組まれていないかご確認くださいませ。

 さもないと…「不注意な人」扱いされてしまいますぞ!!

 

10月2日(日曜) 深夜

 たまには自分が生まれた年の名作映画でも見てみるかと思い立ち、『タワーリング・インフェルノ』(1974年・米)をDVDにて鑑賞する。

 有名な作品なのでご存知のかたも多いだろうが、どういう映画かといえばこれ、「超高層ビルが火事になり、閉じ込められた人々が逃げられずに困る」というパニック映画。

 火災が広がっていく描写と並行して、人物描写もテンポよく展開していくストーリー、3時間近い長尺にもかかわらず一気に引きつけられる良質の映画である。…のでいい映画だとは思うのだが、ただひとつ気になったのは、登場人物のひとりに「オハラハン」という名前の輩が 存在すること。

 オハラハン。どう聞いても「小原はん」という京都人にしか聞こえないのだ。

 

 火の手が猛威をふるい、黒煙が人々に襲いかかっているというのに、消防隊員は口々に「オハラハン」「オハラハン?」。ああ、小原はんはいいから、早く火を消せ! …とイライラするも、重要な役どころであるオハラハンは、何度も何度もスクリーンに登場する。

「延焼を防ぎきれん! 小原はんに連絡を!!」
「小原はん、はやく来てくれ!! このままではダメだ!!」
「小原はん、応答せよ!! 応答せよ!! 小原はーん!!」

 おかげでこのパニック名作映画、『小原はんの高層ビル火災よもやま話』みたいな代物になってしまった次第でありまして。

 外国人の名前って、おかしなのが時々あるからやっかいですね。

 探せばいろいろありそうだけど、面倒なので今日はこのへんにて。

 

10月1日(土曜) 夜

 あ、9月って30日までだったのか。

 「何月が30日までしかないか?」を思い出すためには毎回、「西向くサムライ」の語呂合わせを口ずさんでいる。これまでの人生でいったい何度、「西向くサムライ」と口にしたことだろう。

 一旦この方式で覚えてしまうと、もうすっかり頼り切ってしまって。

 ちなみに、8月以降の英語の「月」の名称を思い出すときも、「8月からは遊んで」と口ずさまないと思い出せません。8月からは"August, September, October, November, December "という、頭文字をとった語呂合わせである。

 毎度こんな苦労をするくらいなら、はじめから普通に覚えときゃよかった。いやまァ、中学の先生にこう覚えろと言われたからなんだけど。

 受験でしか使わない詰め込み知識は語呂合わせでいいけれど、生活上よく使うだろう知識は普通に覚えたほうがいいと思いますよ。

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 さて、近所の百円ショップでみかけた文庫本ボックスです。

 サンプルとして背表紙を印刷した紙が貼ってあるものの、本のセレクトが微妙でよく分からない。それなりにいい本が選んであるような気もするけれど(宮沢章夫と帚木蓬生、山本周五郎は個人的に好きな作家ベスト30位には入る)、このラインナップを見ても、どうも本人像が見えてこないというか。

 どうせなら、こういうラインナップにしたらどうだろう(自分の本棚から選んでみた10冊。ベスト10じゃないのであしからず)。

 本棚をみればその人が分かると言われるけれど、これで何か分かられるのだけは御免蒙りたいものです。

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 どうでもいいけど、百円ショップの「文庫本ボックス」。

 こんなフタ付きのボックスに本を入れてしまったら、いくら中身が見えても絶対読まないと思います。

 


およそ番目です。

   2005年 9月のプチ日記 

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