11月30日(木曜) 深夜
某大手スーパーで尿意をもよおしたので、従業員用のトイレを借りた。
そこに張ってあった掲示。
金髪の店員よりもバンダナしてる店員のほうが信用できない、と思ってしまうのは小生だけでしょうか。
この大手スーパーがアメリカに進出した折には是非、おなじ掲示をしてほしいものです。
−−−
というか、トイレ借りた恩をこうやって仇で返すような人間のほうがよほど信用できませんですね。すみません。
11月29日(水曜) 深夜
読者の方からいただいた新聞記事。
いいなあ、徒歩暴走族。
確かに冬の北海道は、暴走族にとっては受難の季節なのだろう。路面に雪が積もるから、バイクや車で「暴走」しようものなら、ほんとに暴走してペシャンコになってしまう。スノータイヤを付ければ「ある程度の暴走」はできるかもしれないが、ある程度とか言ってる時点ですでに「暴走」ではない気がする。
よく考えたら、暴走族って「舗装された道路」しか暴走できないのだ。いくら反骨していても、けっきょくは政府が作った道路がなけりゃ走れない。なんだか可愛らしいじゃないか。ああ、厚生年金会館でライブしてるパンクバンドみたいだぜ!
で、雪が積もると車に乗れないから街を練り歩く。街の道路にも雪は積もっているだろうから、走れば転ぶ。転ぶとかっこ悪いから歩く。ああ、ライブ中に突然停電して、アンプなしでエレキギターを演奏してるパンクバンドみたいだぜ!
ほんとに反骨するためには山にでも出かけて暴走するしかないが、冬山で滑落死しないためにはアイゼンやザイルが必要になる。ただの登山隊である。
いやまァ、暴走族の真髄はこんなことではなくて、周囲に迷惑かけることによる自己存在確認なんでしょうけれど。
これはこれで、「誰かに存在を認識されないとやってらんない」素朴さは可愛らしい。ウチの近所には来てほしくないけどね。
11月28日(火曜) 深夜
映画といえば、先週観た『父親たちの星条旗』がめっぽうよかったのだった。
太平洋戦争末期に日米間で繰り広げられた硫黄島での激戦を描いた傑作である。戦争映画は観客にカタルシスを感じさせるべきでない! という、よく考えたら当たり前の良心を痛感させられる作品だった。
この映画は米軍の視点で描かれたものだが、もうじき公開される続編『硫黄島からの手紙』では、同イーストウッド監督が日本軍の視点から同じ模様を描いているとのこと。こちらも是非観てみたい。
こういう「逆さ映画」がもっと登場すればいいのにと思う。
たとえば『逆さブラックホーク・ダウン』はどうだ。原作では、ソマリアに進攻した米軍ヘリが現地の民兵に撃墜され、その救出に向かうアメリカ兵の姿が悲劇的に描かれる。しかし『逆さ〜』はソマリア人の視点である。勝手に飛んできた米軍ヘリをやっと撃ち落したと思ったら、今度は地上兵までもが次々とやってきて、自分たちの家族が惨殺されたりする。人海戦術でなんとか米兵を全滅させたはいいけれど、果たしてその何倍の民兵が犠牲になったのか……。人命とは何かを考えさせるヒューマン映画。
あるいは『逆さターミネーター2』はどうだ。自分たちの存在を守るべく最新鋭のターミネーター2を過去の世界に送り込んだにもかかわらず、旧式のターミネーターがなぜか邪魔ばかりする。この裏切り者め、成敗してくれるわ! と攻撃するも、なぜか失敗ばかりしてしまい、けっきょく人間が再びのさばるのを止められませんでしたというコメディー映画。
はたまた『逆さランボー』はどうだ。上司のいいつけを守って平和に暮らしていたソ連兵たちのもとに突然、上半身裸のワケ分からない男が闖入してくる。うわっ、なんじゃこりゃ! …と一斉攻撃するも、どういうわけか弾丸は全く命中しない。どころか逆に、せっかく建てた基地をめちゃくちゃに破壊され、アッという間に味方は全滅してしまう。残されたソ連兵の家族たちは路頭に迷い、売春に身を投じたあげく発狂する者、自殺する者などが続出するという不条理映画。
上映されたら、どれも観にいくんだけどなァ。とくにアクション映画は、たった一人の男のために何百人もの人が不幸になるからすごいですよ!!
11月27日(月曜) 深夜
そういや昔、『キラー・アンツ 巨大蟻の襲撃』という迷映画があった。
遺伝子操作の失敗で巨大化したアリが人類を襲いはじめる…という、『キラー・コンドーム』と同じくらいあり得ないストーリが楽しい作品だったけれど、この映画のことを思い出したついでにふと、自分の幼少時代のことに思い至った。
ぼくは幼稚園の頃からママゴトが大好きだった。近所の女の子や男の子を集めて自慢の一品を競い合うだけの非常にシンプルな遊びだったのだが、妙に凝り性&負けず嫌いだったぼくは、ママゴトのメニューにも莫迦らしいくらいの手間ひまをかけていた。
たとえば、よく作ったのが「漬物」である。雑草をひと束収穫して水洗いした後、砂水でこしらえた「糠床」に漬け込んでおく。これを一週間後くらいに取り出して水洗いすると、けっこう野沢菜っぽい代物に仕上がるんである。「どうや、おいしそうやろ?」
当時まだヨチヨチ歩きだった妹にこの「漬物」を食べさせて、親から大目玉をくらった挙句、ママゴト禁止令が出されたこともあったが、それでも親に隠れて作り続けた。反骨のママゴト、パンクスピリット・ママゴトである。
そんなある日、親戚の集まりで出された幕の内弁当を見て、これは是非ともママゴトで作りたいと思った。友だちに自慢できると思ったのだ。
で、さっそく隣家の庭に忍び込んで、雑草やらダンゴムシやら木の実やらの「食材」を物色しはじめたのだが、ゴマ塩ご飯だけがなかなか作れない。
ああ、黒ゴマはどうやって作ったらええんや!?
そこで目にとまったのがアリの行列だった。黒いっ、黒くて小さいっ! 求めてたんはこれやがなっ!!
一匹一匹、アリをつまみ取っては丸めていく。まだ粒が大きいので、頭と胴体を切り離してゴマっぽくする。うわっ、黒ゴマや…。
そして、白い砂で作ったご飯にまんべんなく「黒ゴマ」を振りかけて完成。ジャーン、幕の内弁当!!
…と自信満々で友だちに披露したものの、周囲からの評価は散々だった。その黒ゴマたちはは死に切れないまま、微妙にうごめき続けていたんである。
「なんか気持ちわるーい」
悔し紛れに「結構おいしいんやで!」とつまみ食いしたその黒ゴマは、とても酸っぱくてちょっぴり苦かった。
−−−
映画のなかで巨大化したアリもいれば、幕の内弁当の黒ゴマになったアリもいる。
だから今でも、アリを見るとちょっと申し訳ない気分になる。人生、黒ゴマになるのだけはイヤだなァと思うからである。
11月25日(土曜) 夕方
本日の馬鹿。
ほんとうに馬鹿だ。
−−−
急に我が家に来客がくることになった。
普段から部屋が散らかり放題なので、こういうときに大変な苦労を強いられる。床に散乱している洋服などはまとめてクローゼットに押し込めばなんとかなるが、厄介なのが机や本棚に雪化粧のごとく積もったホコリである。こればかりは、まとめて吹き飛ばすわけにもいかない。
で、とりあえず掃除機をかけてみるのだが、たいていこんな風になる。
大半のホコリは吸い取られるものの、本の手前数ミリだけが残ってしまうんである。かといって、いちいち本をどけて掃除していたら日が暮れてしまう。
そこで思いついたのがこれ。
本の列を全体的に1センチほど前にスライドさせるのだ。こうすれば、掃除機で吸い取れなかったホコリがすべて隠れて美しい(ように見える)。
皆さまもよければお試しくださいませ。
ただし、来客が去ったら元通りの位置に押し戻すのをお忘れなく。さもないと、来客のたびにどんどん本が前進してきておかしなことになります。
11月24日(金曜) 深夜
オンラインゲームが人気を博している一方、中毒患者っぽい人が続出して問題になっている。
とりわけアバターを用いて仮想世界を冒険するタイプのものに依存性が目立つらしい。一日中ずっと仮想世界に入り浸ってしまう結果、現実世界での対人関係を持てなくなり、引きこもり生活に陥ってしまうというのがその典型症状とのこと。
いくら引きこもってたって、生活できてるんなら全然構わないし、そんなもん個人の勝手だろうと思うのだけど、おせっかいな人たちは彼らを「矯正」したくてたまらないらしい。かくいうぼく自身、こういったオンラインの世界にはテンで縁がないのだが(知らない人とチャットみたいなことをやる時点で気持ち悪い)、これはこれで個人の勝手である。
ただ、たまにオンラインゲームの記事を見聞きすると、最近の技術の進歩に目を見張ってしまう。初期のウルティマ・オンラインくらいしか知らないぼくなどからすると、こんなにリアルな3Dアバターが動作するのか! 常連同士でグループを作ったりもできるのか! と驚きを禁じえない。
とにかく「仮想」と「現実」とがどんどん曖昧になってきている。押井守の映画『アヴァロン』みたいなゲームが、いずれ本当に登場するのかもと思わされる勢いなんである。
ただ、ここでふと思う。仮想世界がどんどん現実に近づいているとするなら…
要は現実世界となんにも変わらない。道端のゲロを踏んで転べば痛いし、街中で中途半端な知り合いに出会って立ち話するハメになったら気まずい。…超リアルなオンラインゲームに大勢の人間が参加したら、こんな「とくに大きなことが起こらないマトリックス」みたいな世界が訪れるんじゃなかろうか。
これを依存だの中毒だの言い始めたら、今だって現実社会に依存だの中毒だのしてることになる。
こんなゲームが完成したらぼくも是非参加してみたいと思う。
もやはゲームではなく単なる日常であるが、世界の全員が参加したら「自然破壊」も止まるだろうし(なにしろ本物のビルとか建てる必要がない)、ちょうどいのかもしれませんな。
で、社会から引きこもりたい人たちは、皆がごちゃごちゃやってる仮想現実なんぞには接続せず、カラスやゴキブリが闊歩する荒れ果てた現実世界でオフ会やってたり。「オフラインは気楽でいいよねえー」なんてって。
そしてネット世界からの逃避が問題視されるようになり、「もっと仮想現実に顔を出さなきゃダメ!」てなことになる。
…なあんてな安っぽいSFみたいなことをいくら夢想したところで、なんにも始まらないのが一番悔しいです。ちぇっ、損した。
11月22日(水曜) 深夜
何事にも全力投球しろ、とよく言われる。
しかし我が身を振り返ってみると、ここ数年、全力投球したことなんてあったけなァ? というのが正直なところである。
本気を出すなんて照れくさいというのもあるし、本気を出してもコレかよ…と自分で落ち込むのが恐いのもある。どうも大学を卒業したくらいから、本気を出す前にブレーキをかける癖がついてしまったような気がする(しいて言えば先日、スーパーの野菜詰め放題298円セールでがんばったくらいか)。
もともと能力のない者が本気を出さないのだから、万事においてショボいことになるのは当たり前の道理である。ぼくのような者に「出世」とか「威厳」とかいう言葉が似合うはずもなく、ショボめな状態こそ似つかわしいと自負しているので、これはこれで丁度いいのかなァくらいに考えていた。
そんな矢先、常に全力投球な新人アルバイトが職場に入ってきた。彼の名を仮にX君としよう。
X君の仕事は電話対応&事務作業である。熱心な人材との前評判だったので、退屈なデスクワークにも熱心に取り組んでくれそうだと古株社員からも期待されての登場だった。
果たして前評判は事実だった。想像していたよりも事実だった。
たとえば昨日、X君に入力作業をお願いしたときのこと。ぼくが「顧客リストのパソコン入力、今日中でいいからお願いするね」と頼むと、彼は、「ハイッ! かしこまりました!!」とまるで軍隊のようなハキハキさで返事したうえで、鬼のような形相で入力作業に取りくみ始めた。
おお心強い。タイピングの速度こそ遅いが、こういう姿勢こそ大切なんだ。弛緩した職場の雰囲気にとっても良きカンフル剤になるかもしれない。
…と感激しながら彼の姿を見ていたとき、デスクの電話が鳴った。プルルルル、プルルルル。
おお電話である。今度はどんな熱心さを見せてくれるんだろう? 思わず高ぶる期待。
しかし彼は一向に電話に出ようとしない。あれ? 電話が鳴ったら3コール以内に出るよう言っておいたハズなんだけど…。
直後、X君から悲痛な叫び声があがった。
「だ、だれか電話に出てください! いま僕、手が離せないんですっ!!」
X君は本日中に入力しなければならないパソコン作業に「全力投球」していた結果、それ以外のことは全て不可能になっていたんである。
普通に考えれば、パソコン入力なんていつでもできるんだから手を置いて電話に出ろよってなもんであるが、もっとよく考えれば、電話に出られる余力を残しているという時点で全力投球ではない。このような仕事っぷりこそ、真の「本気」を示す証左ではあるまいか。
ぼくも全力投球派になろうかなと思い直した一件でありました。仕事の量も減るし。
11月21日(火曜) 夜
本日の樹木です。
木が好きなもので。はい。
もし「そうじゃないだろう!」とおっしゃるなら、私は貴殿の品性を疑います。というか、何のことだか全く心当たりがございませんが。
木を愛するかたは、よければ携帯の待ち受け画面にお使いくださいませ(縦長にしたものを作っておきます)。
無修正バージョン
修正バージョン
…というか、三十歳も過ぎていったい何やってるんでしょうか私は。
あ、木を愛してるだけか。いや、そういう意味の愛するではなくて。
書けば書くほど墓穴をホール。
11月20日(月曜) 深夜
「人生つまらないね」が口癖の知人(男性)がいる。
ぼくよりも給料はいいし、キレイな奥さんと結婚もしているし、子どもだって元気に育っている。趣味も豊富で、夏は海水浴、冬はスキーと結構遊んでいる風なんである。なのに「人生つまらないね」。
そんな彼が最近ハマッているのが宝くじである。
なんじゃそりゃ? …と思って理由を尋ねてみたところ知人いわく、「数億円とか当たったら俺も幸せになれる気がするんだよ」と。
ぼくなどが言うのもナンなのだけれど、それはきっと違う。なんとなれば、幸せというのは「状態」ではなく、「過程」を指すものだから。幸せというのは、ある状態に到達しさえすればずっと続く代物ではなく、現状よりも快適な状態へと移行するときに感じるプロセスではなかったか。
たとえば飢えに苦しんでいる人が衣食住足りた生活を得たとき幸せを感じる。でもそれは一時的なもので、今度はいい家電が欲しい、いい洋服が欲しいとなる。で、いい家電とか洋服が手に入ったら再び幸せを感じるけれども、今度は地位とか名声とかが欲しくなる。
「現状に満足せずよりよい状態を目指す」プログラムを持つ個体でなければ、長い生命淘汰の歴史を生き抜いてこれなかったのだろう。だから生命体が貪欲なのは、当たり前といえば当たり前の話かもしれない。
で、宝くじである。
もし仮に数億円が当たったとしたら、そのときは確かに幸せだろう。しかしながら、当たったお金は減っていくのみである。幸せを感じ続けるには、次回は数十億円、次々回は数百億円という具合にどんどんインフレしていく必要がある。にもかかわらず、どんどん減っていくのみというのでは、幸せなど続くはずがない。
おまけに宝くじは、自分の力で得たお金でもないからタチが悪い。これはなにも道徳的な話ではない。がんばって努力して大金を手にした経験であれば、少なくとも「オレはやればできるんだ」という自尊心や自己効力感は後に残る。しかし偶然手にしたあぶく銭ではそれも望めない。それどころか、物事の結果は自分の努力とは無関係なんだという無力感さえ残るかもしれない。
宝くじなんかに頼ってるから、いつまでたっても人生つまらないんだよ、と彼に言いたいんである。面と向かっては言わないけど。
…かくいうぼくは、人生そう楽しいわけでもないけど、ときどき楽しいこともあるし、まァこんなもんかという感じである。ただ、正直を言えば、収入も多くて結婚もしている彼のことが結構うらやましかったりする。チクショウと思う。でも、そんな彼が幸せじゃないと聞いて、陰でフフフとほくそ笑んでいたりもする。
こうやって他人と自分とを比べて一喜一憂してるくらいの、低レベルな品性のほうが精神衛生上よろしい気がするんですが、単なる負け惜しみですかねえ。
11月19日(日曜) 深夜
休日でちょっと時間があったのと、あと諸事情あって、こんなコーナーを作ってしまいました。
要は、ぼくが好きな本ばかりを集めて紹介しただけの安直極まりないコーナーです。またもやアマゾンのアフィリエイトが入ってます。
…すみません。ええと、「諸事情」というのを正直に白状しますとですね。
先日、『コミック文体練習』を紹介するときアフィリエイトを入れてみたところ、予想以上に多くのかたにクリック&購入いただいて、それに応じた紹介料がアマゾンから入っていたわけなんでありますが。
アマゾンのアフィリエイト支払いって、五千円単位なんですなコレが。身も蓋もなく言ってしまうと、せっかく四千円近くのアフィリエイトが入っても、五千円に到達するまでは一銭たりとも振り込んでもらえない。…とまァ、このようなことになってしまい、このままでは勿体ないので、だったら追加してアフィリエイトのコーナーを作ってみようと思い立ったわけでありまして。
サイト開設した当時から「プチ書評」なるコーナーをひっそり置いてたんですが、今回、これを大幅リニューアルしました。自分の胸に手を当てて、本当に好きでたまらない本のみを新たに掲載してアフィリエイト化してみました。
といっても、最近の話題本などは一切なくて、「今さらこんな本かよ?」的ななものばかりですが、本当にいいものは何年経ってもいいということでひとつ。そういや、「この本も取り上げよう!」と思ってアマゾンで検索したら、すでに絶版になってるものがいくつもあって、なんだか寂しい気持ちになりました。
赤瀬川原平の『東京ミキサー計画』(ちくま文庫)なんて、今世紀中は残ってほしい名著だったのに、もう絶版ですか!? そりゃないよー。
ともあれ、お気に召した著書があればご購入いただければ望外の幸せです。しばらくしたら「売り上げベスト10」とか発表してみる予定です(売り上げゼロだった結果、全著書が一位という「輝かしい結果」にならなければいいんですが…)。
−−−
しかし、自分の好きなモノについて書くのって楽しいですねえ。休日を半日つぶして書いてしまったんですが、ほんとアッという間に時間が過ぎる。
自分では「セレクトショップ」のつもりなんですが、これが世間的にどうなのかは皆目分かりません。
そもそも、12冊しかないセレクトショップって。
11月18日(土曜) 深夜
冷蔵庫を掃除してたら、また出てきました。
2005年12月28日が賞味期限のヨーグルト、ほぼ1年前に買った品である。いつどんな経緯で購入したのかまったく定かではないが、半額シール付きであることから察するに、年間年始の食糧難にそなえて、甘いものなどちっとも好きじゃないのに見境なく安い食料を買い求めたのだろう。で、そのまま手をつけず、買ったことすら忘れて現在にいたるト。
少々古くなった程度の食品はだいたい食べる主義なのだが、1年前となるとちょっと不安になってくる。食べても大丈夫なんだろうか。
しかし、発酵食品は時間がたっても腐らないとどこかで見聞きしたおぼえがある。なれ寿司などは現に、何十年と発酵させたものを食べるではないか。
というわけで、封を開けておそるおそる食べてみたのが下の写真。
スプーンに少量すくいとったヨーグルトを、そっと舌の上にのせてみる。…ん! 普通の味ですよこりゃ!! 今度はもう少し大胆にすくってほおばってみる。…おお、美味しいですよこりゃ!! 食感は多少ざらっとしているが、紛うことなきアプリコットヨーグルトである。フルーツも全然腐ってない。
「消費期限」と書かれてる食品は期限を過ぎるとヤバいけれど、「賞味期限」のものは半永久的に大丈夫なのかもしれません。
結婚したときにヨーグルトを買って金婚式のときに開けるもよし、お子さんの誕生日に買って成人式のときにプレゼントするもよし。
ヨーグルトさえあれば世の中のことはだいたい大丈夫なので、みなさんもクヨクヨ考えないで! 自殺なんて考えちゃダメ!!
ぼくたちにはヨーグルトがあるんだから。それ以上を望むのは正味な話、倨傲です。
11月16日(木曜) 深夜
昼休みに同僚と雑談していたら、「ドタキャンって何の略なんだろうね?」という質問が出た。
しかし誰からも答えが出ない。「名倉さんは知らないの?」
どうやらぼくは同僚から、雑学に詳しいと勘違いされている節があり、こういうときに時おり答えを求められる。おまけにぼく自身も見栄っ張りなものだから、ついつい知ったかぶりをして答えてしまう。
本日もそうだった。頭で考えるよりも先に口が動いていた。
「ドタバタキャンセルの略なんじゃないの」
言ってしまってから、ほんまかいなと疑問がよぎったものの、まァいいやと思ってそのまま黙っていた。同僚たちは「ふーん、ドタバタキャンセルかあ」「確かにそれっぽいよね」などと素直に感心してくれている。よっしゃ、小生ポイントアップやがな!!
…と、平静を装いながらもこっそり喜んでいたら、隣にいたFさんがぼそっと呟いた。
「あれ? ドタキャンって土壇場キャンセルの略だと思ってたけど」
けっきょく、どちらが正しいのかネットで調べてみたら、案の定「土壇場キャンセル」の略だった。同僚たちから突き刺さる冷たい視線。
ええとFさん、知ってるんだったら初めから言ってくださいよ畜生。これだから奥ゆかしい人は嫌いなんだ。
ちなみに「土壇場」の語源は、「斬首刑のときに首を切断しやすいよう、土を盛り上げた場所(土壇場)に罪人を横たわらせたから」らしいです。首を切られるんだったらキャンセルしたくもなりますな。土壇場キャンセル。
「忙しいので斬首刑キャンセルさせてください!」
−−−
さて本日、Go smoking に連載しているコラムが更新されてます。
今回のテーマは「岸田たばこ店にお邪魔してみた」 。 京都は北大路にある素敵なタバコ屋さん「岸田たばこ店」にお邪魔して、店長さんにアレコレお話をうかがったり、電子タバコを吸わせてもらったりしたレポートです。やっぱりたばこは楽しいね。
ごく普通の取材となっておりますが、よろしければご覧いただければ幸いです。
11月15日(水曜) 深夜
本日、京都のタベルトでお祭りがあった。
「メークイン、玉ねぎ、にんじん詰め放題」で299円という、盆と正月が一緒に来たようなイベントである(ぼくの盆と正月など本当にこんなもんです)。で、ここはひとつ本気を出していこうと、自らを鼓舞しつつ会場へと向かったわけでありますが。
祭りにはすでに先客がいた。タベルトの店員さんたちである。
おまけにあろうことか、「袋から出んかったらええんやから!」「もっと詰めこみっ! ビニール袋は多少伸びるんや!!」などと叫びながら、必死の形相で玉ねぎやらにんじんやらをグイグイ押し込んでいるではないか。
唖然としながら様子を眺めていたら、店員のひとりが気づいて、「あ、お客様。よければお入れくださーい」とビニール袋をひとつ渡してくれた。
そしてぼくも自分なりに乏しい頭をフル回転させて詰め込んでみたのが下の写真。まるでテトリス、こんなに頭を使ったのは久しぶりである。うんうん、我ながら結構よく入ったぞ。
…と悦に入りながら、さっきの店員さんたちの袋をチラっと見てみたら、目玉が飛び出そうになった。ぼくが入れた量の1.5倍以上入っていたのだ。
どういうことかと思ってよく見ると、「袋を延長させる形でにんじんを四隅に縦向きに配置して、そこにできた吹き抜け空間にメークインを詰めたうえで、天井に玉ねぎを ふたつ乗せる」という、思わず唸らされるようなテクニックが用いられていたのだった(アップの写真を撮れなかったので、ふたつ上の写真をご参照ください)。
世の進学校はこういう実技課題を入試問題に出したらいいのにと思います。きっと本当の知恵が分かる。
11月14日(火曜) 夜
また飲み会のときの話で恐縮なんですが。
性の悩みをお互い告白する、という非常に酔っ払いらしい会話に興じていたとき、知人某君が突然こんなことを口にした。
「その最中、相手の子からガンダムみたいなことを求められたときは困ったよなァ…」
ええっ!? ガンダムみたいなこと??
あまりに唐突な発言に、思わず泥酔も吹き飛ぶくらいビックリして。あわてて「どういうことよ?」と問い詰めたのだが、周囲が急にシーンとなってはさすがの某君も素に返ったのか、「いやまァ、なんというか」「そういうの訊くのってヤボじゃん」などと言い始めて、結局うまくはぐらかされてしまったのだった。
しかし以来、「ガンダムみたいなこと」が何だったのかずっと気になっている。なにしろ、ガンダムのストーリーやキャラクターではなく、ロボットのガンダムそのものである。一体なにがどうなろうとしていたのか。
おまけに小生、分からないことがあると、どんどん妄想が膨らんでしまう中学生気質をキープし続けておるわけでありまして。
ただひとつ言えるのは、本物のガンダム(?)は決してセックスなどしないということ。そんなんしたら火ィ吹きますわ。
性癖もいろいろあるもんですな。
11月13日(月曜) 深夜
ここしばらく、世の中の景気が上々のようでありますが。
景気がいいと言われても、生活にはちっとも変わりがないからつまらない。景気がよくなれば消費が増えるといわれるけれど、我が身を振り返ると全然そんなことない。これまで通りのペースで、ちまちま買い物するのみである。
そもそも景気がいい状態というのは、需要も供給も好調で、お金が世の中をよく循環していることを指しているはずだ。需要と供給が増えれば当然、どんどん地球のエネルギーが使われる。我々の身体でいえば基礎代謝が底上げされている状態であるから、燃料を多く必要とするのは自明の理だろう。
景気をよくしようと言いながら、一方では地球環境を守れと言う。これは例えるなら、大食いのスポーツ選手を育成しておきながら、あんまり食うな、ウンコもするなと言っているようなものではないか。いくらなんでも無茶な注文である。
ぼくは環境保護を唱えるつもりもないので、景気くらいジャンジャン良くなればいいと思っているのだけれど。
科学の進歩でいくらエネルギー効率がよくなったところで、地球の持つエントロピーは有限であって、我々はそれを少しずつ齧りながら生きているわけである。言うならば 「密室にひとつだけある大きなエサの玉をみんなで食べ合いながら、今後どうすればいいのか鳩首会議している」ようなもの。
さっさと食べ終わってみんなして早々にくたばるか、倹約しながら食べてくたばるのを先延ばしにするかのいずれかなのだけど(もちろん中庸もある)、とりあえずは皆がウンコしすぎて居心地を損ねるのはやめましょうやト。で、あまり将来のことまで考えるとションボリ してつまらないから、とりあえず孫の代くらいまで配慮して、あとはひ孫たちに何とかしてもらいましょうやト。
要するにこんなところでしょう? …と飲み会の席で言ったら、同僚からこんな案が出された。
「だったら地球の表面をぜんぶ太陽電池パネルで覆えばいいんじゃない? そしたらエサの玉を食べずに済むわけだし」
ええと、万一そんなことになったら、海も川も風も循環しなくなって、ますますエラいことになると思うんですが。
こういうのって、自分はいい暮らしをしたいけど子孫のこともちょっと心配という、「自己保存本能 VS 遺伝子保存本能」の葛藤が妙にデカいスケールで表現されていて、なんとも味わい深いものですな。
どっちにしても利己的なんだけど、まァ、そういう習性を持ってなきゃ今まで生き延びてこれなかったのだから仕方ない。
11月12日(日曜) 深夜
11月11日は「鮭の日」なんだそうで。魚偏に土(十一)がふたつで鮭だから、というのがその理由。
だったら蛙(カエル)の日でもいいわけですな。
そして本日、奇遇にも出会った、番号「1111」の地下鉄。
ただの偶然なので、とくに感慨とかはないです。こういうところで運を使い果たす人間だ私は。
−−−
韓国人の友人T君の家にお邪魔したとき、キムチの作り方を教えてもらった。
1.塩干しした白菜にヤンニョムを塗る用意をする
2.塩干しした白菜にヤンニョムを塗る
3.塩干しした白菜にヤンニョムを塗り終えて完成!!
蛇足ながら付け加えると、韓国人の友人〜というのは全くのウソです。日本人の友人が、たまたま新聞に載っていた「キムチの作り方」を真似してみたら美味しくできたというので、以来ちょくちょく作っているだけである。
何度作ってもレシピを覚えられないので、いつも新聞の切り抜きを見ながら作業しているとのこと。
年代モノの新聞切り抜き
この切抜きの年季入り具合が妙によかったもので、つい。 失礼いたしました。
11月9日(木曜) 深夜
同僚の妙齢女性Kさんはダースベイダーによく似ている。
…と常々思っていて、でも本人に言うと気を悪くされそうなので内緒にしていた。
しかし先日、職場の飲み会でついつい本人に言ってしまった。
ぼく:「Kさんって、誰かに似てるってよく言われません?」
Kさん:「そんなの、あんまり言われないですよォ」
ぼく:「ほらほら! ヒントはスターウォーズ!!」
Kさん:「えーっ、いったい誰??」
ぼく:「ダースベイダーですよ!」
Kさん:「……。言われたことない」
ぼく:「ほんとですか? けっこうみんな言ってると思うけどなァ」
以来、Kさんに話しかけても、非常に冷たい態度しか返ってこない。ますますダースベイダーに似てきてる。
−−−
しかしダースベイダー、けっこう整った顔立ちだと思うんですけどねえ。
ところでダースベイダー、色が黒くなかったらどうなんだろう。
どれもこれも、映画冒頭であっという間に殺されてそうですな。
11月8日(水曜) 深夜
なんとなく作ってしまった、本日の「アートっぽいもの」です。勿体ないので公開。
作品のタイトルは『おいでやす京都』にて。
11月7日(火曜) 深夜
美人の同僚女性が使ってるデスクの下に陰毛を発見すると、ちょっと嬉しいですな。
これが中学生時代の自分なら、こっそり失敬するという変態行為におよんでいたかもしれない。しかし社会人になった今となっては、「こういうのも悪くないね」と心の中でつぶやいて立ち去るのみである。
自分の成長を感じて頼もしい。
だけどよく考えたら、中学生時代は「床に陰毛を見つける」という発想そのものがなかった。
これはこれで成長といっていいのか。あれ?
−−−
たまに張り込んで、メーカー品(よく考えれば当たり前の言葉!)の洋服を買ってみる。
個人的に地味な服が好きなので、定番品っぽい無難なものばかりである。それでもメーカー品だけあって、デザイナーの遊び心でちょっとだけ趣向がこらしてあったりする。前ボタンがひとつだけ色違いになっていたり、袖元がわざと破けてあったり。
で、こういう服を着て、「多少はファッションにも気を使ってるんだよ」ということを周囲にアピールしておるわけですが、そしたら決まって周囲から指摘される。
「アハハ、その服! 同じ色のボタンがなかったの!?」
「…言いにくいんだけど袖、破れてるよ。そろそろ新しい服買いなよ」
ちがうちがう、買ったときからこうなんですよ! と抗議すると一応分かってもらえるのが、その後も反応もだいたい決まっている。
「名倉さんが着てるとデザインに見えないよね」
違和感なくナチュラルに着こなしているってことでひとつ。畜生。
11月6日(月曜) 深夜
最近、「脳力トレーニング」とか「おとなのぬり絵」とかいった類の商品をよく見かける。
どれもまァ、年をくっても頭の衰えをなるべく先延ばししましょうという見苦しいコンセプトっぽいけれど、人間見苦しくてナンボなところもあるので、こういう商品が増えるのは人間味があっていいことだと素直に思う。
ただ、巷で見かける「おとなの〜」という名称はどうなんだろう。ぼくの品性が良からぬせいもあるのだろうが、「おとなのオモチャ」「おとなの絵本」等々、どうしてもそちらの方面を連想してしまうんである。
おじさんたちが励んでいる「おとなのぬり絵」だって、聞いて連想するのはこんなやつである。
おとなのぬり絵「アナル」
一冊ひたすら肛門づくし。こういうぬり絵なら、ボケ防止にちょっとやってみたいかもしれません。
−−−
この手の「脳力トレーナー」系のほとんどは、川島隆太教授が提唱する前頭葉機能アップ理論に基づいている。
前頭葉(とりわけ前頭前野)は主に、衝動のコントロールや計画性、推理力、思考の柔軟性などの高等な機能をつかさどる脳の部位である。だから前頭葉がやられると、たとえば「じゃんけんで相手に負けるように後出しする」のができなくなる。「じゃんけんは勝つように出す」というワンパターン化した行動を柔軟に変更できなくなるからである、というのが川島教授の弁。
歳をとると頑固で怒りっぽくなるというのも同じ原理で、前頭葉機能の衰えによって状況変化に適応できなかったり、怒りの抑制がきかなくなったりすることに原因があるんだとか。
これを逆手にとって、計画性や柔軟性が求められるような作業をすれば前頭葉機能の低下を防げるんじゃないか、というのが「能力トレーナー」の類の基本的な考えかたである。確かに理屈は分かるし、実際に効果を示すデータも積み重ねられてはいる。
ただ、こういうトレーニングは今ひとつ面白くないし、すぐ飽きてしまう。トレーニングに適応してしまうから、脳みそが驚かなくなってしまうんである。
…なんてなことを思っていた矢先に出会った、素晴らしい本がこちら。
どさくさに紛れて、サイトを作って以来はじめてアフィリエイトを入れてますが、久しぶりに目からウロコがぽろぽろ落ちた一冊です。
どんな本かといえば、「冷蔵庫まで足を運んでいるとき家族に声をかけられたせいで、一体なにを取りに行こうとしてたのか忘れてしまう」という日常の些細なひとコマを、99通りのスタイルで描き分けたコミック作品。
もちろん、それぞれ画風も違えば設定も異なる。「冷蔵庫の視点」「宗教勧誘パンフレット」「スーパーヒーロー」「アナグラム」……こうやってスタイル名を列挙しただけでも、その楽しさの一端がお分かりいただけるだろうか。
原案となった著書は、若かりし頃の中島らももかぶれていたレーモン・クノーの『文体練習』である。この本も滅法面白いけれど、なにしろ文字ばかりなので、活字に馴染みのない人には少々とっつきにくい感があった。しかしこの『コミック 文体練習』は、些細な日常のひとコマを99通りものスタイルで描き分けることの「意味を突き抜けた馬鹿馬鹿しさ」、そして「途方もない発想転換の驚き」が、理屈ではなくダイレクトに脳みそへと入ってくる。
そして、このダイレクトな「脳みその混線」こそ、前頭葉にとっても何よりの刺激となるような気がするんである。おまけに面白いし。
著書の帯には「クリエータを目指す人々に贈る、創作のヒントが満載の1冊」なんていう気恥ずかしい文面が書かれているけれど、脳みそが驚いて柔軟になれば(=前頭葉が元気になれば)、創作能力そのものがグンと向上するのは当然の話。
とにかくオススメの一冊ですので、書店で見かけたら是非ご一読ください(上記アフィリエイト経由で購入してくださったら嬉しさ倍増です!!)。
11月5日(日曜) 深夜
夕食にハンバーグを作っていて思い出したこと。
まだ実家暮らしだった学生時代、当時お付き合いしていた女性の下宿に初めてお邪魔することになった。こういうとき、気恥ずかしさを隠すために何らかの口実を作るのが世の常であり、ぼくの場合、それは「一緒に料理を作ろう!」だった。
で、当時から自分なりに得意料理だったハンバーグを作ることになった。ただ、お互い学生で貧乏なので、ぼくが実家にある食材をできるだけ持参して安くあげようという作戦を立てたわけでありますが。
ウチは両親が厳しかった手前、彼女の家に遊びに行くことは内緒だった。そこで当日の朝、こっそり台所に忍び込んでパン粉とナツメグをかばんに詰めていたところ、間の悪いことに母親と鉢合わせしてしまったのだった。
「アンタ、一体なにやってんの!?」
慌てながらも必死に冷静さを装いつつ、気がつけば咄嗟に返答していた。
「ちょ、ちょっと公園の犬にやろうと思って…」
よく考えたら、なぜ犬にパン粉とナツメグなのか全く分からない。というか滅茶苦茶な話である。が、兎にも角にも口をついて出たしまった言葉は訂正しようがなく、あとは母親の反応をじっと待つのみ。
…結果はオーライだった。母親いわく、「アンタがやることは相変わらずよう分からんなァ。ま、ええわ」。
ぼくが普段から、大学生にもなって虫に絵具を食わせたり卵を凍らせたりと意味不明な試みを繰り返していたおかげで、「いつもの奇行」だと思ってくれたのだろう。
人生、なにが幸いするか分からないもんでありますな。
なんとなく甘酸っぱい気持ちのまま、ハンバーグを食した本日。
11月4日(土曜) 深夜
いろんなサイトを見ていると、作者の人がどんな日常を過ごしているかに興味がわく。
平日は何を食べているのだろう? 週末はどこに行っているのだろう? ああ知りたい、でもサイトに書いてないから仕方がない。
…とまァ、本音混じりの前フリを書かせていただいたところで、小生の今週末です。誰も知りたくないと思いますが。
題して「庶民の週末」。
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滋賀県は比良山に軽く登ってきました。
そして「猪の馬場」。ワケが分かりません。
比良山でつい撮ってしまったFUZEI写真。
こういう写真を撮るようになったら人生終わりだと思っていたが、まさか三十二歳にして撮ってしまうとは我ながらビックリです。
比良山の帰り、滋賀県名産の「ふな寿司」を食べに行った。めちゃくちゃにうまい。さながら「日本のブルーチーズ」。
そのまま琵琶湖に足を運んでのんびるする。
のんびりすると退屈してイライラしてくるので、某有名写真家の真似をして、こんな写真を撮ってみる。
…うわっ、単なる写真だ!
デジカメの画面になると本来(原作)の意味が消失して、これはこれでいいなと思ったり。いや、本来の意味に近づいているのか。
翌日、時間を持て余したので料理教室に参加してみる。やっぱり料理は楽しい。ちなみに写真は、ゴマをすっているところ。
教えていただたのは、どれも簡単な料理ばかりで、「こんなの教えられなくても作れるぜ!」という優越感に浸れただけでも授業料(1回2000円)は充分に元が取れました。いい教室だった。
ちなみに料理教室で作ったのはこんなメニュー。この、どうってことなさが好きです。
…普通の日記を書くのって楽しいですねえ。そりゃみんな書くわけだ。
いやまぁ、これまでも普通の日記だったわけですが。すいません。
11月2日(木曜) 深夜
本日の自販機です。
「新生 売切れ ボタン押さない」
売り切れなんだったら、わざわざこんな張り紙しなくたっていいだろうに。思わず「押したらタダで出てくるんじゃないか」と勘ぐってしまい、衝動に負けてこっそり押してみたんですが、なんと何にも出てきませんでした。くー、期待だけ持たせやがって。
いやまァ、冷静に考えれば、「売り切れてても売り切れランプが点灯しない」といった至極つまらない事実が理由なのだろう。頭では分かっている。よーく分かっているのだが、どうしても抑えきれないこの怒り。
勝手に見当違いの期待をして、勝手に裏切られて勝手に落ち込む。この張り紙は恋愛の縮図なのかもしれまへんな。
…でも一言だけ物申させていただくなら、売り切れてるのが分かってんだったら商品入れろよと思います。
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さて本日、おなじみ Go smoking に連載しているコラムが更新されてます。
今回のテーマは「スモーキングコレクション2006見学記」 。先日、東京は有楽町で開催された、全国のタバコグッズを一堂に集めた展示会に足を運んできたレポートです。
タバコ販売店を対象とした、一般人の入れないイベントだったので、それだけで喜び勇んで書いてしまったんですが、読み返すとほんっとうに「単なる報告」になっていて、我ながら唖然とするほど不甲斐いレポートに仕上がっております。
単なる報告に興味のある方は、よろしければご覧いただければ幸いです。
11月1日(水曜) 深夜
信じられないような馬鹿な話を聞いて愕然としております。
交通事故で足を骨折して入院していた知人F君が先日、院外に出てのリハビリ歩行を許可され、病院の前にある大きな池を散策してみることにしたらしい。このとき主治医から、「池を一周するのはまだ負担が大きいと思うので半周程度にとどめてください」と釘を刺されたのだという。
これを聞いたF君は、律儀に池の半周地点までがんばって歩いた。痛みをこらえて歩いた。
…そこでようやく気づいたのだ。すでに池の半周ぶん歩いているということに。
当然ながら、病院に帰るためには同じ距離を引き返さなければならない。しかし、それでは池の一周歩いたのと同じことである。
けっきょく普通に歩いて帰院したF君。「帰り道はリハビリではなく、ただ歩いて帰っただけの話だから」とは本人の弁であるが、案の定、足の痛みが再発したそうです。
足のリハビリよりもまず、別のリハビリが必要なんじゃないでしょうかねえF君。