4月30日(木曜) 深夜
沖縄出身の人たちは、沖縄県民のことを「ウチナー」、それ以外の本土に住む人のことを「ナイチャー」と呼ぶ。
このことは以前から知っていて、「ウチナー」は「ウチ(内)の人」、「ナイチャー」は「内地の人」のことだと思っていたのだけれど、「…っていう意味なんでしょ?」と沖縄出身の人に話したら失笑された。
「それって、どっちもウチ(内)じゃん!」
思いこみというのは誠に恐ろしいものですな。ちなみに「ウチナー」はそれ自体が「沖縄」という意味なんだそうで。
−−−
あと、子どもの頃からの疑問が「なぜステーキは値段が高いのか?」。
こういうことを言うと「だっていい肉なんだから当たり前でしょ」と一蹴されるのがオチなのだが、ちょっと待ってほしい。
同じような部位の肉であっても、焼肉用の薄切り肉よりもステーキ用の厚切り肉のほうが高いんである。薄切り肉は薄く切る手間がかかっているに対して、厚切り肉なんてものは手抜き三昧の切りかたなのに、どうして値段が高くなるのか? (だったらミンチはどうして安いんだという話になるんですが、ミンチの材料はそのままだと売り物にならないカス肉がほとんどらしいので)
これと似た話では、普通電車よりも特急電車のほうがどうして高いのか? というのもあります。特急のほうが電車に乗れる時間が短いのに、料金が高いのはオカシイんじゃないかと。ロングコースよりもショートコースのほうが高いのはオカシイんじゃないかと。
だったらピンクサロンやソープランドなんかも、ショートコースは「特急料金」として割高にすればいいんじゃい。
4月29日(水曜) 深夜
本日の乗車券回収箱。
使い終えた回数券やプリペイドカードを入れる専用ボックスなわけだが、改札口の内側に設置されているものだから、ちっとも役に立たない。とくに回数券は、使い終えるのは改札を出た後と決まっているから、いざ回収箱に入れようと思っても入れようがないんである。
改札を出た後に何とかして回収箱に入れてやろうと、自動改札機から精一杯身を乗り出してみたこともあるのだけれど、全然届かないうえ、おそろしく挙動不審なことになってしまうのが恥ずかしくて、すぐにあきらめてしまった。
こっちとしても、使い終えた回数券は財布の中でじゃまになるし、紛らわしいから早く処分したい。回収して何らかの形で資源を再利用できるのなら、できることなら協力したい。ただ、捨てたいときに捨てられないというのではどうにもならないではないか。
…とまァ、こんなところでボヤいてても何の解決にもならないわけで、だったら駅員に直接言えよという話ではあるんですが。ちょっと不便だけど、駅員に直訴するまで困っていないという微妙な天秤の結果、ウェブの日記に書くという形に落ち着いた次第。
こういう「わざわざ言うほどのことでもないこと」を書けるのが、ブログの魅力なのかもしれませんな。そんなもんわざわざ書くなと言われそうですが。
4月27日(月曜) 深夜
元同僚のAさんが引っ越したというので、新居祝いの名目にかこつけて皆で飲み会。
要は女性の一人暮らし部屋にお邪魔したかっただけの話なのだが、それはさておき。
こういう「宅飲み」(…って今でもこんな言いかたするのか?)になると、ついつい余計な料理を作って持参してしまうのは以前からのことで、今回もとくに頼まれてもいないのに人数分のハンバーグとオムレツ、ミックスサラダ、スペアリブ煮込みを持ち込んだあげく、自分は焼酎ばかり飲んでほとんど料理に箸をつけないという、いったい何者なのかよく分からない挙動にて新居祝いをこなしてきたのでありました。
とはいえ、自分が作ってきた料理に全く手をつけないとあらぬ疑いをかけられそうな気もしてきて(こっそり睡眠薬とか陰毛とか混入してるんじゃないか? みたいな。考えすぎか?)、そうじゃないことをアピールするために一応、ちょぼちょぼと我が料理も口に運んでみたりして。自分で作った料理は味が分かりきっているから心底つまらない。
あと、他の人が作ってきてくれた料理に手をつけないのは失礼なので、こちらのほうはがんばって頬張るよう心がける。オトナのマナーである。食べてみたらどれも美味しかったので満足だったのだけれど、Sさんが作ってきた「鶏の手羽元ワイン煮込み」がとりわけ旨かったのでレシピを訊いてみたら、 人工調味料は一切使わずに仕上げられていることを知って驚いた。
ぼく:「へー、この料理、コンソメとかの人工調味料、全然使ってへんの!?」
Sさん:「そんなの使わなくても、手羽元からいいスープが出るから大丈夫ですよ」
ぼく:「ううむ、すごいなぁ。美味しいわコレ」
Sさん:「ありがとうございます」
ぼく:「てっきり人工調味料使ってるかと思った。それくらいの出来映えやね」
Sさん:「はァ……」
ぼくとしてはもちろん、最大級の褒め言葉だったわけだが、どうやらそういう風には受け取ってもらえなかったようで。
人工調味料が味の王様、という認識をそろそろ何とかしたいものです。
4月25日(土曜) 夜
Grand Prix をグランドプリックスと読んでしまって恥ずかしい本日ですが、それはさておき。
先日の朝、各停の通勤電車に乗っていたとき、近くの座席に座っていた乗客がいきなり前のめりに倒れて動かなくなった。
うわ、なんだ、どうしたんだ? と周囲の人たちが見守る中、隣に座っていた乗客が「大丈夫ですか?」と声をかけたのだが応答がない。肩をたたいてみても反応がない。もしかして…と最悪の事態も頭をかすめたが、ただ、遠巻きに見ている限りでも、呼吸はちゃんとしている風だった。
と、そのとき、同じ車両の端に立っていた別の乗客が突然、「安心せいっ!いま緊急停止ボタン押したからっ!」と叫んだかと思うと、直後、電車に急ブレーキがかかって駅と駅の間で停車したのだった。ボタンを押した乗客は車掌とインターホンで会話している。
車掌:「どうされましたか!?」
乗客:「急病人や! 急病人!! そこでぶっ倒れとるんや!! 救急車呼んだってくれ!!」
車掌:「かしこまりました!」
そうして5分少々が経過、救急車のサイレンが聞こえてきたのだが、サイレンが鳴るばかりで一向に救急車がやってこない。それもそのはず、しかし、待てども待てども救急車はこない。それもそのはず、駅と駅の間で緊急停止しているものだから、救急車も線路内に入れず立ち往生していたのだ。
その後、救急隊員が担架を持ってやってきたのは30分近く経ってからだった。やむなく最寄の踏切から歩いてきたのだろう。
緊急停車ボタンを押した男は始終、得意げな顔で成り行きを見守っていたのだけれど。
普通に考えたら、各停の電車なんだから、あと3分くらいで次の駅に到着することくらい分かるだろう。とりあえず次の駅に病人を下車させることにして、そのあいだに駅まで救急車を呼んで待機させたほうがずっと合理的だし、他の乗客にも迷惑をかけなかったのではないか。
何も考えず緊急停止ボタンを押すというあまりにも莫迦な善意。やり場のない怒りをモヤモヤさせながら、それでも野次馬根性でぼくも成り行きを見物していたところ、倒れていた乗客が救急隊員の大声での呼びかけに応えている姿が目に飛び込んできた。
そして、倒れていた乗客いわく、「すみません、寝てました」。
ああ、こっちが死にそうです。
4月23日(木曜) 深夜
本日は各局のトップニュースが「草なぎ剛さん酔っ払って裸になってた」事件。
NHKを筆頭に各社がヘリを飛ばして、草なぎさんが酔っ払っていたという公園を上空から俯瞰したり、その前に飲酒したという店を写したりしていた。でも言ってしまえば、これって単に「酔っ払いが裸で座り込んでいた公園」と「酔っ払いが飲んでいた店」だ。こんなもんに1フライト何十万円もかかるヘリを飛ばして撮影しているのが痛快である。
酔っ払ってたまに全裸になるくらいはまァいいんじゃないかというのが個人的な意見で、むしろ人間味があっていいようにも思うのだけれど(たとえば故・中島らもさんが同じエピソードで逮捕されていたら、きっと「らもさん相変わらずアホやなあ」という失笑で済んでいたに違いない)、草なぎさんのようにCMに出演したりイメージキャラクターになったりしてるといろんな損得勘定がからんでくるから、周囲としても笑って済ますわけにはいかないのだろう。
いやまァ、理屈で言えば、「芸人なんだから私生活がどうあれ、素晴らしい芸さえ提供してくれたらそれでいいじゃないか」というのが落としどころな気がする。俳優や女優や作家や画家がいくら酒乱で周りに迷惑をかけていても、素晴らしい作品さえ観ることができればそれでいいのと同じく、芸人は芸さえよければそれでいいのだト。
ただ今回は、ひとりの芸人が酔っ払って裸で座り込んでいたことが全国トップニュースになっているという構図が、なんだか単純にとてもおもしろい。斜に構えているわけではなくて心からそう思う。
酔っ払ったからといって何をしてもいいわけでは勿論ないけれど、しょうもないことに目くじら立てる世知辛さも意外といいものなのかもしれません。
それにしても、他人の酔っ払い失敗談というのは本当に心が和みますな。草なぎさんにおかれては、酒乱芸人として一層のご躍進を願う次第。
4月22日(水曜) 深夜
職場にて。
パソコンに向かって手を離せない作業に取り組んでいたとき、タイミング悪く、上司から厄介な頼まれごとをされてしまったのだった。
「ちょっと悪いんだけど、今すぐコレ修正してくれる?」
うわー、パソコン作業も手を離せないのに、どうやって今すぐやれっていうんだよ!?
といっても、上司命令だからやらなくてはいけない。で、覚悟を決めて同時進行で作業しはじめたそのとき、眼前の電話が鳴ったのだった。ただでさえパニック寸前なのに、おまけに電話まで取らなくてはいけなくなって。
ぼく:「わわ! は、はい! ○○の名倉と申します」
相手:「あ、いつもお世話になっております。山本(仮名)です」
ぼく:「ええっ? あ、あー、ええっと、あの、どちら様でしたでしょうか」
相手:「××の山本です」
ぼく:「あ、ああー、山本ですね!」
相手:「…あのう、名倉さんですよね?」
ぼく:「は、はいっ! 名倉さんです!!」
相手:「……」
ぼく:「なんか今、ぼく変なこと言ってしまったかもしれませんけど、すみません、名倉です!!」
相手:「はァ……」
取引先の山本さんを「山本」呼ばわりしたうえ、自分のことを「名倉さん」と言う。こんなやつは即刻、地獄行きである。
いちおう言い訳をするなら、「困ったときはとりあえず相手の言葉を繰りかえす」というビジネス会話術が身に染み付いていたせいで、こういうことになってしまったのだけれど、今回はそれが最悪の展開に花開いてしまった形である。
その後、なんとか冷静な会話に立ち戻って、先方にも笑い話として流してもらえたのでよかったのだが、ほんと気をつけないといけませんですな。
4月21日(火曜) 夜
帰宅してベランダを見たら、今朝干して出たはずのシーツが跡形もなく消えていた。すわ、シーツ強盗か!?
ただ、それにしては他の洗濯物はすべて無事だし、部屋もまったく荒らされていない。シーツだけ几帳面に盗んでいく泥棒などいるわけがないから、おそらく風にあおられて飛んでいったのだろう。そういや今日は、ずっと強い風が吹いていた気がする。
で、いったいどこに飛んでいったものかとベランダから周囲を見回してみたものの、これがいくら探しても見つからないのだ。階下にも引っかかっていないし、辺りの地上にも落ちていない。隣の民家やビルにも見当たらない。大きな白い布地だけにすぐ見つかると高をくくっていたのだが……。
というわけで仕方なく、自転車に乗ってご近所を探し回った本日なのでありました。いや、決してシーツが惜しいからというわけではなく(それも少しはあるけれど)、あんな大きな布地が降ってきたらヨソ様に迷惑だろうと思ったからである。ああ、迷子の迷子のシーツさん。
それにしても、まさかシーツを探して近所を徘徊する日が来ようとは、夢にも思いませんでしたという本日。
ちなみに今もまだ見つかってません。こうなったら辺り一帯の電信柱に「ウチのシーツ知りませんか?」と張り紙でもして回るか。
4月20日(月曜) 夜
騙される快感というのがある。
よく出来たウソにすっかり騙されていたことを知ったとき、怒りがこみ上げるよりもまず、その手口の鮮やかさにアッパレ! と思ってしまうことがあるだろう。エイプリルフールに上手なガセネタを期待する気持ちも、同じような心理であるような気がする。
そして最近、自分で自分を騙して遊んでいるのがコレ。
自室の壁にとまっていた蚊を叩いたところ、原形をとどめたまま張り付いたので、そのままにしているのだ。こうしておくと、帰宅するたびに「あ、蚊だ!」と身構え、その直後、「…そういやもう退治した蚊だったんだ」と胸をなでおろすことになる。
このセルフトリックを仕掛けてから一週間以上経つ現在もいまだに騙されるので、悔しいけれど気持ちいい。
先週末ウチに飲みに来た友達も、コレを見て「あ、蚊!」と言っていた。
友人:「あ、蚊!」
ぼく:「…やと思ったやろ?」
友人:「え、蚊と違うん?」
ぼく:「ふっふっふっ。実はな、この蚊、死んでるねん」
友人:「へ!?」
ぼく:「一週間以上前に叩き潰したやつを、そのままにしたるねん。騙されたやろ?」
友人:「いったい何のために……」
ぼく:「騙される快感をな、毎日こうやって味わってるんや」
友人:「…おまえ、大丈夫か!?」
ひそかな楽しみというのは、得てして他人には理解しがたいのかもしれません。当方、猛烈に大丈夫です。
4月17日(金曜) 深夜
携帯電話を右手で持っている人が増えていることに気づいた。
ぼくはずっと左手で持っているのだけれど、最近の若者を見ていると、たいてい右手に持って操作している。電話を受けるのも右手、メールを打つのも右手。あれ? 電話機って右手に持つんじゃなかったっけ? いったいどうなってるんだ!?
気になったので後輩をつかまえて詰問してみたところ。
ぼく:「携帯どうして右手で持つわけ?」
後輩:「えー、利き手で持つのが自然じゃないですか」
ぼく:「電話と言えば左手でしょ。ほら、この固定電話だって、左手で持つのを前提に設計されてる」
後輩:「あ…そういやそうですね。でもなんで左手なんすか?」
ぼく:「右手で受話器持ったら、右手でメモとか取れないでしょうが」
後輩:「あー、なるほど。でもあんまりメモとか取らないですし、メールとか左手で打ちにくくないすか?」
ぼく:「全然打ちにくくない!」
子どもの頃から携帯電話を使い慣れている人は、それを右手で持つ習慣が当然のように身についたのではないか。しかしながらぼくのように、大学を卒業してようやく初めて携帯を手にした者は、左手で持つという固定電話の習慣が身に染みついているから当たり前のように左手で持っているのだろう。
考えてみたら、携帯で通話しながらメモ取ることなんてまずないし、メールを打つのも利き手のほうがやりやすそうである。
なんだか悔しいけれど、今後は見栄を張る意味もこめて、右手で携帯を持つようにしていこうと思います。
皆さんの周りの人は、右手で持ってますか? それとも左手で持ってますか?
4月16日(木曜) 深夜
職場に取引先の新人社員さんがやってきた。
ただ、緊張のせいか焦って喋ろうとするあまり、話の内容がテンで要を得ない。これに見かねた同僚Fさんが「とりあえず深呼吸して、気持ちを落ち着かせて!」と進言したところ。
そのとおりにした新入社員さんが深呼吸しすぎて、過呼吸発作を起こすというコントのような本日でした。
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ほとんどの人が世論に反対意見を持ってそうな事柄、というのがある。
たとえば、こんにゃくゼリー問題。子どもや老人が食べると喉につめて窒息死するから販売を自粛せよというわけだが、だったら餅なども販売禁止にしなくてはいけないことになる。そんなものは本人もしくは周囲が気をつけるべきことではないのか?
…というような意見は、それこそ耳にタコができるほど聞いた気がする。
あるいは、捕鯨問題。クジラは頭がいいから食用にするなというわけだが、だったら牛や馬はどうなのか。そんなものは単に食文化の違いであって、自分たちの文化を押付けているだけではないのか?
…というような意見も、それこそ耳にタコができるほど聞いた気がする。これについては、静岡県あたりではイルカの肉がふつうにスーパーで売られているらしいから可笑しいのだけれど、それはさておき。
かくいうぼく自身、こんにゃくゼリー問題、捕鯨問題ともに、世論への反対意見に与しているほうである。ただ、みんなが同じ意見を言っていると反対したくなるという心底単純な性格のオーナーとしては、賛成側に回ってみたくなる気持ちが条件反射的に頭をもたげてしまうのも恥ずかしながら事実でして。
世論に振り回されているのは誰でもない、自分自身であることに気づいて俄然意気消沈。ほうら、言わんこっちゃない。
4月14日(火曜) 夜
昼、小腹がすいたので、なにげなく「なか卯」に入ったまではよかったのだけど。
券売機の前でメニューを決めようとしたら、何を食べたいのか決められなくなってしまった。牛丼もいいけど、うどんもいい。でも両方ともセットで食べるほど腹減ってないし……。とか考えてたら、みそ汁も飲みたくなってきた。うーん、一体どうすればいいのだ!?
で、ここはひとつ長考に入ろうと思った途端、ぼくの後ろに客が並んでしまったのだった。
いい歳こいたオトナが「なか卯」で長考している、というのは相当恥ずかしい(多分)。ただ、早く決めなくちゃと焦ると心の余裕がなくなって、ますます決められなくなってくるものである。ああ、もう、いっそ「店員にお任せ」とかのボタンがあったらいいのに!!
そうこうするうちにも数十秒が経過、いよいよちょっとマズい雰囲気になってきたそのとき。気がつけば自分でも驚くような行動に出てしまった。「お先にどうぞ!」と言い放つと同時に列を譲り、背後にあるもうひとつの券売機に並び直したんである。
「なか卯」の自販機でメニューを決められず、順番並び直し。
世の中にはこんな人間もいるのかと、我がことながら唖然としております。事実は小説よりも奇なりとよく言われるけれど、「なか卯」の自販機で順番並び直す人は、どんな小説にもきっと登場しないだろう。
そして結局、梅干入りうどんを食べました。心なしかいつもより梅干が酸っぱく感じられた本日。
4月13日(月曜) 夜
どうということのない写真ですみません。京都は東九条界隈にて。
観光地でもないのに売られている「はとの餌」。忙しい人はたぶん買わないであろう一品。
街路樹のひとつひとつにプレートを付けている親切な住民がいるのだ。でも「カエデの仲間」。
こちらも気の抜けるプレート。「ミカンノ仲間」。ポンカンみたいな実がたくさん成ってました。
オレいいこと言った!という雰囲気満点の標語。こういう「したり顔」感はけっこう好きです。
先週末飲み過ぎたせいか、不整脈と動悸が出るようになって、これが酒のせいなのか確認するために本日も飲んでおります。
4月12日(日曜) 夜
本日のホラ吹き。
いったいどこに出入口があるのですか? 四次元空間への入口があるのですか?
でもまァ、「駐車場につき駐車禁止」とそのまま書くのもなんだかおかしいですな。
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全然関係ないけれど、大学生の頃、美術部に入っていた。
各部員は年に2回行われる展覧会への出品が課せられており、ぼくは毎回、自分の油絵を出しておったわけですが。
大学2年生のとき、入部してから3回目の展覧会で先輩から言われたセリフにショックを受けた。
「おまえの絵、回を重ねるたびにみるみる上達してるなァ!」
普通に考えれば嬉しい評価なのだけれど、実は当時、今にもまして惰眠をむさぼるのに忙しく、新たに作品を描く時間が捻出できなかった。そんなわけで、1回目の展覧会には直前に描いた絵を出品したものの、2回目の展覧会には高校3年のとき描いた絵を、3回目の展覧会には高校2年のとき描いた絵を、それぞれ出していたのだった。
「回を重ねるたびにみるみる上達」しているということはすなわち、回を重ねるたびにみるみる腕が下がっていることを意味していたのだ。
ただ、先輩の手前こんなこと言うわけにもいかず、ガックシ肩を落としながら「ありがとうございます…」と答えるしかなかったのでした。
4月9日(木曜) 深夜
いつも仕事帰りに食材を買っているTマーケットには、心の中で「おせっかい婆さん」と名付けている老淑女がいる。
というのも、このおせっかい婆さん、食材を物色している客をつかまえては、「これ半額になっとるやろ?まとめ買いして冷凍しとき」だの「これも半額のときにまとめて醤油とみりんで煮といたら日持ちするさかい」だのと逐一アドバイスしてくださるのだ。
ターゲットとなる客には一定の特徴があるようで、観察してみたところ、
このような客に狙いを定めてアドバイスしているようなのだった。
これを好意的にとれば「貧しくて料理に疎い客に安くて美味しい料理を教えて助けてあげたい」という親切心なのだろうし、悪意的にとれば「自分よりも無知で生活レベルも低そうな客に説教して優越感に浸りたい」という倨傲心なのだろう。 ま、いずれも同じようなものだけれど。
で、当然のことながらぼくなどは格好のターゲットとなっていて、遭遇するたびにアドバイスを賜っていたわけですが。
本日はついに現物を持たされてしまった。「 この精肉店はね、店長と知り合いになると牛脂をもらえるの。牛脂はタダで美味しいのよォ。炒飯に使ったらそれだけで美味しくなるの。そう、今夜は炒飯にしときよし!」
そして気がつけば、ぼくの手に大量の牛脂が握らされていたのだった。
…うーん、いやまァ、親切心は誠にありがたいんですが。ぼくなどはタダの牛脂でも食ってるのが分相応なのかもしれませんが。
こちとら仕事帰り、安売りされている食材をいかに組み合わせてどんな献立にするかを一週間計画で考えつつ買い物するのが、人生の数少ない楽しみなんである。それなのに、いきなり牛脂を渡されて、今夜は炒飯にしときよしと言われても。ついでに言わせてもらうと、炒飯はラードのほうが旨いと思うし。
といって、持たされた牛脂を捨てるわけにもいかず、とりあえず持って帰って途方に暮れておる本日なのでした。とりあえず機会があれば、炒め物するときにでも使ってみることにします。
まァ、何を損したわけでもなし。料理に牛脂を使うという、今まであまり考えなかった発想を与えてくださったことに感謝しておきますか。
4月8日(水曜) 深夜
氷結のレモン味だと思っていたら、間違ってグレープフルーツ味を買っていて心底ガッカリしておりますが。
本日の駐車場です。
ここはもともと常盤医院という診療所だった。開業されていたころは「常盤医院 駐車場」というプレートが張られていたのが、廃業されたのに伴って「医院」の文字が消されて、このような状態に落ち着いているという次第。
今となっては単なる住宅で、合計3台ほど入る駐車場には自家用と思われる外車が1台駐車されているきりである。貸し駐車場などしなくても経済的に十分やっていけるのだろう。しかしそれでも、プレートだけは残されているのがちょっと可笑しい。
これは単なる想像なのだけれど、「せっかくだから、わざわざ剥がすのも勿体ない」と思われたのではないか。常盤さんの自宅であるから、「常盤駐車場」とあっても別におかしくはないわけだ(ただ、わざわざ主張する必要もことさらないわけだが)。
「せっかくだから精神」や「勿体ない精神」は、素敵な無駄なものをいろいろ生み出す土壌になっているような気がします。
4月7日(火曜) 深夜
なんとなく不況気分が盛り上がって、いつもなら買わない安い台所洗剤を買ってみた。
有名メーカーのものは一本170円くらいするのが、90円くらいで売っていたのだ。裏面の成分表を見てみても、配合はほとんど同じである。よし、ここで倹約して今日はビールを3本飲んじゃおう!!
…というわけで購入して、実際に使ってみて驚いた。いくらお湯を使っても、ちっとも泡が立たないのだ。
泡が立たないくらい構わないじゃないか、とおっしゃる向きもあろうが、実際に洗っているとこれがすこぶる使いにくい。というのも、泡立たないからどの部分を洗えたかが判然としないし、水洗いしても、ちゃんと洗えているかどうかが判然としない。とにかくユーザーを 強迫的な不安に陥れる洗剤なんである。
本当に洗えているのか不安だから一度に大量の洗剤を使い、水洗いにも大量の水道を使いしているうちに、かえって損していることにようやく気づいたという次第。これほどまでに分かりやすい「安物買いの銭失い」体験をしたのも久しぶりかもしれない。
ぼくなどはこの不合理感に耐え切れず、さっそく花王のファミリーフレッシュに買い換えてしまったんですが。
かえって損すること請け合いなので、贅沢感を味わいたい人にはむしろオススメです。これがキッチンにあったら、金持ちのステイタスになるかも。
4月6日(月曜) 深夜
昨日は出町柳の鴨川べりでお花見をしてきました。
花見となると飲みすぎて前後不覚になるのは毎年のことで、今年も後半はまったく記憶がないのですが。
参加者の方から翌日聞いたところによると、帰るときに自転車の鍵をかけたまま走ろうとして、当然ながら走らず、悲壮な顔で「走らへんっ!!」と叫んでいたらしいです。おまけに、たまたま近くに居合わせた学生グループから、大笑いしながら「鍵!鍵!」と指摘されていたりもしたらしく。
で、何とか自転車に乗ったはいいけれど、案の定フラフラで10回以上転倒して全身アザだらけなったのも昨年と同じ。そういや昨年は、ぼくが転倒してうめいているのを見て、「大丈夫ですか?」と声をかけてくださった通りすがりの方に、「猛烈に大丈夫ですっ!」と返答したりしていたのだった。
生きていると恥の数ばかりが多くなります。…なんだか悔しいので、桜の魔力ということに。ああ、桜は危険じゃ。
4月3日(金曜) 深夜
日参している数少ないブログのひとつ、「とくお組」のコラムに思わずニヤついてしまった。
以下、2009年4月2日の記事より一部引用。
中田は本当に財を崩して旅に出てしまったが、その後どうなったのか。
話は全く変わるが、俺は引退してから、これまで約3年に渡って、世界中を旅してきたけども、今年はなんと“日本国内を旅する”事にしたんだ。(nakata.net 2009/3/18)
海外では自分が見つからなかったらしい。
もしかしたら中田は、あの「自分と同じ人間は世界に三人いる」という意味の自分を探しをしているのかもしれない。
中田さん、日本国内でも自分が見つからなかったらどうなるんだろう。
探し物が早く見つかることを陰ながら応援しております。
−−−
「本当の自分」というのはタマネギのようなもので、むき続けるとしまいに何もなくなってしまうとはよく言われることだ。
では、「本当の自分」なんて、どこにも存在しないのか?
確実に存在しているのは、「本当の自分って何だろうと探求している自分」である。当人は「今の自分は本当ではない」と思っているのであり、これは現在の自分に漠然とした不全感を抱いていることの表れであろうと推察される。つまり、「現在の自分よりも、もっと素敵な自分がいるに違いない」との思いを抱いておられるわけである。
だとすれば、「自分探し」の内実は「漠然とした自己不全感を明確化していく作業」だということになる。
ところで、探し物というのは本来、何を探したいのかハッキリしているものである。探し物をしている人に「何を探してるんですか?」と訊ねて、「それが分からないんですよ」なんていう答えが返ってきたら、不条理コントかボケ老人かのいずれかだろう。
ここで問題なのは、探すべき対象である「不全感」がいつの間にか反転して、「本当の自分」にすり替わっている点である。
「不全感を抱いている自分」は実際に存在するから、不全感を明確化していく作業は頑張れば可能かもしれない。しかしながら、「本当の自分」(=不全感が消失した自分)はあくまで想像上の存在であるから、いくら頑張っても見つかりようがない。運よく不全感が消失したとしても、数日後には再び不全感にさいなまれているかもしれない。
たとえて言うなら、現代社会の問題点はいくらでもあげつらうことができるけれど、じゃあどんな社会が「本当の理想」なのかと問われると、とたんに誰もが口を濁してしまうのと似ているかもしれない。民主主義
VS 共産主義だって、どっちが絶対的に正しいかなんて誰にも分からないし、その答えは世界情勢によっても変わってくるのだから。
こう考えると、周囲の状況によって自分の存在のありかたを柔軟に変えていくことこそが、「本当の自分」ではないのか。
進化論的に考えても、勝者とは「絶対的な強者」ではなく、「環境に合わせて自己を変えられる柔軟性を獲得した個体」である。しがたって「本当の自分」というのは、存在としてあるのではなく、そのときそのときでうつろいゆく現象なのかもしれない。
常に変化している存在こそが「本当の自分」なんだと気づいたとき、自分探しの旅は終わりを迎えるんでありましょう。
4月2日(木曜) 深夜
本日の "Yes We Can"。
オバマ大統領がとうとうスロットの宣伝にも登場されました。肖像権もへったくれもない無節操さが痛快です。
あと、「景気回復を大胆に応援」というのも節操がなくて好感が持てる。
不景気に突入して以来、お金を使うことは善いことだというような風潮になっているから、ギャンブルでお金をつぶすのもソープランドに通い詰めるのも、今や美徳と言っていいのかもしれない。そのくせ一方では、地球温暖化防止のために消費を抑えましょうとかも謳われていて、正に世界的ダブルバインドという感があって趣き深い。
「景気回復のためにも、マイカーに乗ってどんどん旅行とかしましょう。ただし、マイカーに乗ると地球温暖化になるから、なるべく外出は控えましょう」
まるで一休さんのとんちみたいな話ですな。といって、高速道路の真ん中を走行したところで顰蹙を買うだけである。
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そういやビジネスシーンにおいても、 "Yes We Can"が持てはやされていると聞く。
上司から書類のコピーを頼まれたときには、"Yes We Can!"と言って何もしないのがいいと思います。
4月1日(水曜) 深夜
映画『スカイ・クロラ』をDVDで観直していて、ふと思い出したこと。
航空会社の多くが近年、手荷物重量の無料許容量を変更している。たとえばJALの場合、今までは32kgだったエコノミークラスの無料手荷物許容量が23kgになった。燃料費の高騰や収入効率の減少がその原因と思われるが、無料で積める荷物の重量が全社的に減りつつあるのだ。
そんな中モンゴル国営航空は、独自の手荷物許容量規定を発表して一部の間で話題になっていた。というのも、手荷物重量のみを課金対象とするのではなく、搭乗者の体重を含めた総重量によって課金額を決めるというルールに変更されたんである。
もともと体重の個人差が大きいモンゴル地域では、体重の違いが運賃に反映しないことへの不平等感が利用者の間で持ち上がっていたのだという。そこにきて近年、力士の航空機利用が目立つようになり、一般利用者からの不満が一挙に爆発したというのがその 内情らしい。体重がゆうに150kgを超える力士と、せいぜい60kgに満たない我々とで、超過手荷物料金が同じというのはオカシイのではないか!? というわけである。
言われてみれば確かに一理はある。体重も自己管理のひとつという風潮になりつつあるうえ、航空会社にとってもこれは合理的な算定方式だったのだろう。そして決められたルールというのが、「体重と手荷物と機内持ち込み荷物の総計が300ポンド(=136kg)までは無料。それ以上については、手荷物の場合は運賃の1.5%、体重の場合は0.75%の率で重量単位に応じて課金する」。
当然のことながら、力士をはじめ体重の重い利用客からは「身体的差別だ!」と激しい反対の声があがっている。しかし現在もこのルールが適用されているところを見ると、「体重は手荷物」という認識が次第に幅を利かし始めているようにも思えてくる。
このぶんだと、幕下のモンゴル人力士たちは、搭乗前になると過酷なダイエットに励むはめになるんだろうか。いやまァ、モンゴル政府としても国民のダイエット習慣=平均余命の向上にもつながるから 、一石二鳥なのかもしれないけれど。ただ、タバコに引き続いて体重ファシズムまでが当たり前のように横行するような風潮には、いささかの警戒感を禁じえないのでありました。
…というのが、もっともらしいウソとして精一杯考えてみた作り話です。はい、エイプリルフールですので。こんな馬鹿な話は聞いたことがありませんので、デブの方々もどうぞご安心ください。
『スカイ・クロラ』観ながら手荷物重量のことを思ったのは本当です。自分のロマンのなさに改めて愕然とするばかり。