8月31日(月曜) 深夜
先日、久しぶりにカフェ・オパールに顔を出したときのこと。
数ヶ月ぶりの来訪という不義理にもかかわらず、店長さん夫妻は暖かく迎えてくださったうえ、その場にいたお客さんたちにもぼくのことを紹介してくださった。
「このかた、名倉くん。インターネットでプチ日記っていうサイトを書いてはるんですよ」
するとお客さんの一人が「おっ!」という表情をして、
「あー、プチ日記! 知ってます知ってます、以前読んでました!!」
嬉しいような寂しいような、なんとも複雑な気持ちになった一件です。
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この日記もかき始めてから10年以上が経つ。毎日2回とか更新していた頃の気力はとっくの昔からなくなっているし、おもしろいことを書きたいという助平心も正直なところ下がってきていている。
読んでくださっている方々には誠に申し訳ないのだけれど、昨今はただ自分の書きたいことを垂れ流すだけの身辺雑記になっていて、当然のことながらアクセス数も一歩一歩、着実に減少し続けている。適正なアクセス数に近づいているというわけである。
したがって、以前は読んでいたという過去形の読者の方々がおられるのは至極当然のことで、考えてみたらそれはそれで嬉しい話なんである。最初から何も読んでもらえていなかったら「ゼロ」だけれど、一時期であっても読んでくださっていたということは、少なくとも「ゼロ」ではないのだから。
それでも、いったん得たものがなくなったとき、寂しさや喪失感を抱いてしまうのがなにやら可笑しい。このあたりに人間の味わい深さがあるような気もしたり。
たとえば、宝くじに当選して1億円を手にして浮かれていた人が、翌日にその1億円をそっくり盗まれてしまったとしたらどうだろう。結局はプラマイ・ゼロなのだから、とくに喜んだり悲しんだりしなくてもいいはずだけれど、おそらく当人はショックのあまり寝込んでしまうのではないだろうか。
さらに風呂敷を広げてみると、人生なんかも同じクチで、たいていの人は「死」に対して大きな喪失感を抱いている(もちろんぼくもその一人)。でも考えてみたら、この世に生まれなかったら「ゼロ」だけれど、生まれて死ぬことは「ゼロ」ではない。少なくとも生きた期間の何かは付加されているわけだから、そんなに悲しまなくてもいいような気がしてくるんである。
「死後の無」と「未生の無」は同じか否か?
こんな命題が時折出される。もちろん、人が生きるといろんな痕跡を残すから、その両者は同じはずはないのだけれど、だからといって、無になることをそんなに喪失、喪失! と騒がなくてもいいんじゃないかと思ったりする昨今。
…なんだか胡散臭い坊主の説法みたいになってしまったけれど、ホームページなんていうダサいものをやり続けていて、ふと考えたのがこんな人生論なのでした。こうやって恥をさらすのも、少なくとも「無」ではないのだから、まあいいや!!
8月27日(木曜) 深夜
近所のとある店の側壁に、こんな警告が張り出されていた。
「不法投棄、24Hビデオ監視中。通報システム導入」
よほど不法投棄に業を煮やしたのかもしれないけれど、監視ビデオのみならず通報システムまで導入とは、まったく穏やかでない展開である。それに導入するための経費も、さぞかし高くかかったのではないだろうか。
…と思って矢印の指すほうに視線をやってみたところ。
あまりにもウソくさい監視ビデオ&通報システムに思わず苦笑いしてしまったという次第。くどいまでに「防犯ビデオです!」と強調されているのも、さらなる胡散臭さを醸し出している。本当の防犯カメラには、決してこんなことは書かれていない。
でも、「これでみんな信じるでしょ」的な姿勢はなんかいい。人を馬鹿にしているとも受け取れるけれど、馬鹿にされている快感を味わえると共に、この「監視システム」の作者はこんなので世間を騙せると思ってるんだなァという侘び寂も味わえるのだから。
そういう意味では、昨今のテレビ番組の多くも、この「監視システム」のような味わい深さがあるのかもしれませんな。
8月26日(水曜) 深夜
数日前、「ウコンの力」をこぼして鮮明な黄色いシミが付いてしまったシャツですが。
ネットで調べてみたら、ウコンの色素は紫外線にめっぽう弱いとあったので、直射日光に丸一日晒してみたら、まったく分からないくらいにシミが消えました。すごい! 洗剤をつけても酵素系漂白剤をつけてもダメだったものが、太陽光で消えてしまうとは。
太陽で消える色素。ウコンの力で黄色く染めたシャツを着て海水浴とか行ったら、朝は黄色かったものが夕方には真っ白になって、周囲を驚かすことができるかもしれない。で、「うわ、シャツの色変わった!?」と言われて、「変わるわけないでしょ。最初から白だよ!」と答えて、相手を混乱に陥れたり。
でも、実際にやったら、誰にも気づいてもらえないんだろうなあ。
こうなったら、ウコンの力で年賀状を書いて、「太陽にさらしてください」とかしてみるか。ミカンの汁であぶり出し、というのは小学生の頃よくやったけれど、太陽に当ててみたら文字が跡形もなく消えてしまうという、何をしたいのかさっぱり分からない感じにて。
とにもかくにも太陽で消えるウコンの力、なんか悪いことに使えないものかと咄嗟に考えてしまう自分が大変さもしゅうございます。
8月25日(火曜) 深夜
我が家の壊れていたクーラーがようやく新しいのに交換してもらえました。
予定時間よりも早く突然やってきた電器屋2人組。ヤバそうなものだけ片付けるので精一杯でした。 粉塵にまみれたブルーシートをベッドの上に広げられて、あーもうどうにでもしろという感。
我が家のエアコンの室外機は隣室にあるんですが、たまたま隣室が空き部屋だったから何とかなりました。 「一体どういうつもりで設計しとるんや!?」という電器屋の意見に猛賛成。
おまけに室外機はベランダのさらに外側に張り出しており、地上20m(命綱なし)のアクロバティックな室外機交換ショーとなりました。ほんと、どういうつもりで設計しとるんや!?
ちなみに、地上20mで命がけの作業をしておられる真っ最中にご本人の携帯電話が鳴ったんですが、その着メロがエロエロで(「ああーん、早く入れて!」という女の子の声がリフレインされる)、命を賭けながら猛烈に照れておられたのが印象的でした。
8月24日(月曜) 深夜
そういや東京で飲んでいたとき、ばかなことを言ってる人がいました(灰色文字)。
「福島には目光りっていう魚があって、美味しいんですよ」
「全然知らないですねえ。関西では出回ってないのかも」
「ひょっとすると別の名前で呼ばれてるのかもしれませんけどね」
「あー、それはあり得ますよね。金目鯛とか、そういうやつかも」
「金目鯛ってことは絶対ないと思いますけど……」
「天下一品のラーメンって関西の人はよく行くんですか」
「うーん、最近あまり行かなくて、年に一度くらいですかねえ。年イチ」
「天一だけに年イチ、ですか(笑)」
「あっ、それ、天一のCMフレーズにいいんじゃないですか!? 年イチ天一、みんな食べよう! みたいな」
「…年イチしか食べてもらえなかったらダメでしょう普通」
まさに頭悪いとしか言いようがありませんが、これを言ってたのは私であります。ちゃんと記憶があるので、あまり酔ってなくても単純にばかなのでしょう。
自分のことをばかと言うことで本当のばかを隠そうとする人ほど、ばかなうえに品性までさもしいから、どうにもこうにもならしまへんですな。
8月23日(日曜) 深夜
東京から帰ってきました。
渋谷で見かけたお洒落な坂道。
しかしこの名前、「王」に点を描き加えて「玉」にするイタズラが絶えないはずなんですが、そういった攻防戦の痕跡が全く見られないことに心から驚きました。
東京の人は皆、オトナなんでしょうか。それとも警備が頑健すぎるんでしょうか。
そしてなんと! 今回は、Web冷え汁の四万十川さん&ポクポクライフのポックリボーイさんとお酒を共にすることができました。
ポックリさんはビール3リットル飲むのを日課として欠かさない勤勉さを備えながら、一方で非常に愉快だという、ぼくにとっては神がかり的なお方です。
…ところでこれ、ちょっとモザイク大き過ぎですかねえ。
…というわけで、ぎりぎりまでモザイク小さくしてみました(左が四万十川さん、右がポックリさん)。
ちなみに会場のほうは、その筋のセンスには定評のある四万十川さんが予約してくださった、門前仲町の「魚三酒場」。
たいていの刺身が200円(アワビですら400円!)、ジョッキが440円、大根の煮物150円という、とても平成時代の東京とは思えない価格設定も最高!です。
今回の所用の結論は、結局こういうことでした。講演者の偉い先生がおっしゃっていたので間違いありません。
「私は時間と空間の中に生きている」というのを分かりやすく言い換えると、「グラディエント・ベクトルとしての〜(以下省略)」ということになるみたいです。
もはや何が分からないのかすら全く分かりませんが、見栄を張って、ゆるやかにうなずきながら聴かせていただいてました。
あと今回の東京での発見は、「ウコンの力」の液体がシャツに付着すると、見事に黄色くウコン染めになってしまい、いくら洗濯しても落ちなくなってしまうことです。たまには「ウコンの力」をシャツにこぼしてみようかとお考えの向きは、このあたり十分にご注意くださいませ。
8月20日(木曜) 深夜
所用あって東京・半蔵門に来ております。
前回関東に来たとき、安宿に泊まったらナンキンムシに血を吸われてエラい目に遭ったので、今回は少々ゴージャスに、ごく普通のビジネスホテルと洒落込んでみました。すぐ隣に英国大使館があるのが何となく頼もしい。
英国大使館に駐められていた公用車。レティセントなツートンカラーが英国の伝統を象徴的に表現しているように感じられます。…すみません、ウソです。この写真は京都・亀岡で撮りました。
罪滅ぼしに本当の写真です。英国大使館の横にある薬局。とくに言うようなことはないんですが、「バンビー」と語尾を伸ばすのは国際的で、ある程度カッコイイのかもしれませんな。
宿泊しているビジネスホテル。洋式ベッド×和風掛け布団のコラボレーションが、大いなる普通感を演出してくれます。ちなみに、宿に着いたら即刻、ベッドに畳み込まれた掛け布団をめくり上げるのが我が流儀です。
今夜の夕食はコンビニで購入した弁当たち。ビジネスホテルと「のり弁」の取り合わせは、正しく黄金コンビです。黄金という言葉の意味が何なのか、いよいよ迷宮入りしてくるスリリングさ!
それにしてもコンビニ弁当って、たまに食べると妙に美味しいですな。この勢いに乗って明日はマクドナルドに行こうと、心に決めつつある自分が中途半端なテンションの高さを物語っています。そう、物語っています。
8月18日(火曜) 深夜
京都の醍醐に「パセオ・ダイゴロー」という総合施設ビルがある。
醍醐だけにダイゴローなわけだが、これがどうしても覚えられず、いつも「ダイゴ・パセゴロー」と口にしては現地の人たちに笑われる。
「パセゴローって何よ!?」
「ありえへんし!(笑)」
それを言うなら、ダイゴローだって「ありえへん」と思うんですが、こんなことで楯突いて波風立てるのもあれなので、曖昧な笑みにてやり過ごしておる昨今であります。いやー、曖昧な笑みって便利ですね。
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そして本日のマンション。
少林寺拳法の人ばかりが住んでいるわけではなく、とくにどうということのない人が普通に入居しているらしいです。
ちなみに賃貸物件とのことですが、「ハイツ少林寺」という名称の分譲マンションがあったら、それはそれで即購入かもしれませんな。防犯効果バチグン!
8月17日(月曜) 深夜
週末を利用して、京都は園部・るり渓にある「石の動物園」に行ってきました。
■草原の中に突如現れる石の動物たち。メドゥーサのせいで石になったんだと思い描くと、多少はロマンが湧いてきますでしょうか。
■ただ、どの動物たちもまったく同じ姿勢なので、メドゥーサ、メドゥーサ……と頭の中で唱えても、どうにもおかしな感じを禁じえません。 ■もちろんゾウさんたちも皆おなじ姿勢。まるでポップアートのようです。現代芸術の人が「増殖するイメージ」とか言ってやってそうな。
■ヘビは盗難防止のためか、立派な台座に埋め込まれて展示されてました。ヘビはそれぞれ姿勢が違ってるのでリアルですが、台座付き。 ■友人らと相乗りで借りたレンタカー(右側のヴィッツ)。ぼくが駐車すると、だいたいこんな風になります。ちょいと斜に構えててカッコイイね!!
8月13日(木曜) 深夜
職場で毎年、レクリエーションとして社員旅行が催される。
一泊二日で温泉に出かけるバスツアーで、数十人を1チームとして数回に分けて出かける段取りになっている。全社員が同じツアーに参加すると会社の機能が停止してしまうから、こうやって小分けにしているわけである。
ただ、ぼくが所属している部署は小人数なので、同じ部署の者がみな同じツアーに参加するだけで部署の機能が停止してしまう。したがって、各自がそれぞれ別のツアーに散らばらないといけないのだけれど、他部署の人たちとはそれほど親しくないから、どうにも行く気にならなくなる。
というわけで、ウチの部署からは参加者ゼロという状態がここ何年か続いていて、今シーズンも同じく参加者ゼロという返事をしたところ、レクリエーション担当者が血相を変えてやってきたのだった。
「おたくの部署、毎年参加者ゼロですけど、最低一人は参加してもらわないと困ります! 今週中に参加者とツアー日を決めてください!」
聞くところによると、参加率が伸び悩んでいることに焦りを感じているレクリエーション担当部が、「これはイカン」というので巻き返しをはかっているらしい。で、参加者がいない部署を訪問しては、こうやって恐喝まがいのことをやっているんだとか。
しかし、ちょっと待てと言いたい。これは仕事ではなく、あくまで社内レクリエーションである。その参加率が低いからといって、脅かして参加者を増やすというのはなにか根本的に間違っているんではないか? 参加率の低さに問題意識を抱いているのは結構なことだけれど、だったらどうすれば多くが参加する魅力的なレクリエーションになるかを画策するのが、担当部の役割ではないのか。
これではまるで強制レクリエーション、強制レジャーである。いったい何のためにあるのか、いよいよ分からなくなってくる。
レクリエーション担当部署にとっては、その目的は「参加率を増やすため」なのだろう。参加率が増えれば、自分たちの評価があがる。だからみんなが参加してくれなきゃ困る。ってことは、参加しない人たちにはプレッシャーをかけなくちゃいけない。そうだ、これこそが自分たちに課せられた仕事なのだ! と。
だが、社内レクリエーションというのは本来、社員の休養と娯楽のために設けられた制度である。多くの社員が本当に楽しんで参加できるようなものこそが、真のレクリエーションなのである。
「参加率のアップ」と「皆が本当に楽しめるもの」との両立。…なんてことを言うと、しまいには社長命令で通達が出されるかもしれませんな。
「レクリエーションを心から楽しまなければ、即刻クビにする!」「その覚悟をもって参加し、心から楽しむように!!」
8月12日(水曜) 深夜
自宅のエアコンが壊れているので、暑くて仕方がない。さっき温度計を見たら34度あった。
これまでずっとエアコン生活を送ってきただけに、夏ってこんなに暑かったのかと改めて驚く。辛抱たまらず扇風機を買ってきたのだが、それでも全身に汗がにじんでくる。暑さしのぎに冷茶ばかり飲んでいたら、すっかりお腹がタプタプになってしまった。
ベランダの外気温よりも室温のほうが高いので、なるべく熱源を減らそうと室内灯を暗くしたり、使っていないパソコンやテレビの電源を落としてみたり。いよいよ地球がダメになってきたら、きっとこういう生活になるんだろうなあ。
こんな当たり前すぎる発見をしたのが唯一の収穫と言えましょうか。
それよりなにより、自宅にいるのが苦痛なものだから、早く冷房の効いた職場に行きたいと思うようになったことが、前向きな変化かもしれません。ああ、私は早く仕事に行きたい!
職場の居心地をわざと悪くして営業さんを外回りに向かわせる、という話を聞いたことがあるけれど、あれは冗談ではなかったんだなァと肌で感じた本日。
8月11日(火曜) 深夜
自宅のエアコンが壊れてしまった。
しかしこういうときこそ賃貸マンションの強み炸裂である。管理会社に連絡するだけでオーナーが修理・交換してくれる。ああ、つくづく賃貸でヨカッタ! エアコンが壊れてヨカッタ! 分譲マンションとか買えなくて本当にヨカッタ!!
…と半ばニヤニヤしながら管理会社に電話してみたのだけれど、一向につながらない。恥を忍んで緊急用の携帯電話に連絡してみたところ、
「はい、○○住宅管理ですが。どうなさいました!?」
「あの、エアコンが壊れたんですけど、電話つながらなかったもんで」
「あ…。あ、さようでございますか。実はお盆休みに入っておりまして。で、どのような故障ですか?」
「どうやら漏電してるみたいで、電源入れると漏電ブレーカーが落ちるんです」
「了承いたしました。では電気工事のメンテナンス業者に言って連絡させますので、しばらくお待ちください」
こうして、なんとなく気まずい雰囲気にて待っていたら、メンテナンス業者から電話がきた。
「名倉さんのお電話でしょうか?」
「ええ、そうですけど」
「○○住宅管理さんからご連絡を受けた、××電器メンテナンスです」
「ああ、お待ちしてました!」
「で、ご依頼のエアコンの件なんですが…おそらく基盤の故障で、どのみち交換しないといけないんですね」
「なるほど、じゃあお願いします」
「ただ…契約している電器メーカーがお盆休みに入っておりまして、発注が17日以降になるんです」
「ええー、そうなんですか?」
「申し訳ございません。17日には発注かけますので、入荷し次第ご連絡差し上げます」
「分かりました……」
ってことは、今日から一週間以上エアコン無し生活ですか。このクソ暑い…もとい、かようにうんこさん暖かい中、一週間以上もエアコン様とたおやかなる淡交あそばしつつ…って、ちょっとちょっと! 冗談じゃあない!! いくら風流に言ってみたところで、暑苦しくて暑苦しくて、こちとら辛抱たまらんのじゃい!
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しかし世間では、ポジティブシンキング(略してポジシン)とやらが流行と聞く。
変えられる状況はそれを変える勇気が必要だけれど、変えられない状況はそれをうまく受け入れる賢明さが必要なのだ、と。
このように考えてみると、今回のエアコン騒動などは正に、変えられない状況の代表である。どうせ変えられないのなら、ポジシンしたほうが精神衛生にとっていいことは自明ではないか。
…ポジシンってこれまで莫迦にしていたけれど、なんとなく気分がよくなってきました。
8月10日(月曜) 深夜
とくにどうということのない週末でした。
清水・五条坂で陶器祭が行われていたので、冷やかし半分に出向いてきました。とりわけ「やきものフェスタ」の一角は、驚くほどに閑散としていて、あ、こういう感じっていいな! と。
露天で売られていた「えさのいらない金魚」。なにかと思って見てみたら、プラスチック製の金魚でした。ところで金魚の最大の楽しみは、エサをやることじゃあないでしょうかねえ。 陶器祭で買った半額グッズたち。ぐい呑みひとつ50円という破格です。箸置は定価ひとつ100円ですが、「これは取っときな」とタダでくれました。ピーナツ型の箸置が気持ち悪くて最高!
夕食はキムチ炒飯と餃子&ビール。この後、買ったばかりのぐい呑みを使いたくて、日本酒を2合ほど。ちなみに炒飯の器は昨年の陶器祭で買ったものですが、今年も売られてました。 食後のデザートに、いただきもののドラゴンフルーツ。なにやら邪悪な外見をしていますが、お味のほうはマイルドに甘いだけなので、拍子抜けすることで有名です。 半分に切ったところ。このままスプーンですくって喰らいます。食べた直後は、口の周りが真っ赤に染まるので、そのまま近所のコンビニなどに行くといいと思います。
それにしても身辺雑記って、書くの楽しいですねえ。で、「ぐい呑みひとつ50円ってお得ですね!」とか「キムチ炒飯うまそうですね!」とかコメントがついたら、なおさら嬉しいんでしょうねえ。
近頃ホント、自分の快楽しか考えてない日記ばかりで申し訳ありません。
8月7日(金曜) 深夜
東京や神奈川方面に旅すると、自宅やと職場を往復しているときよりも携帯電話の電池が長持ちする。
生活エリアが実は田舎であることを知らしめられます。
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そして本日の反省。
どうでもいい申込書に意味なく偽名を用いる悪癖をそろそろ何とかしようと思います。おまけに名蔵。
そういや雲隠れなさっている酒井のりピーさんは、携帯電話やクレジットカードの使用履歴から割れた居場所が報道されていた。別の事件では、容疑者がTASPOでタバコを購入した履歴が警察に提出されていたらしい。そして繁華街には、いたるところに防犯カメラが。
その一方で、山に入ったまま失踪して発見されない人が数え切れないくらい存在する。
酒井のりピーさんも今回はひとつ腹をくくって、森に帰ったほうがいいのではないかとご提案申し上げる次第です。
「のりピー、森に帰ろう!」
8月6日(木曜) 深夜
フワフワ生地の高級ブランド製バスタオル(品名はスポーツタオル。788円)を新たに購入した話は少し前に書きましたですが。
よく考えたらバスタオルって、半年くらい使ってパサパサ、ゴワゴワしてきた位のほうが肌に馴染むというか、水気もよく吸ってくれるし心地いいのだった(これがコンセンサスなのかどうかは分からないけれど、少なくともぼくはそうで、高級バスタオルにユーズド風のウォッシュ加工して売り出せばそれなりの人気が出るんじゃないかと考えているクチである)。
こんな風であるから、せっかく新しいのを買ったのに旧来の馴染んだバスタオルばかり使ってしまう。その結果、新しいバスタオルはずっと使われることなく、フワフワしたまま放置されることになる。いったい何のために買ったのか、いよいよ分からなくなってくる。
だったら、いま使っている馴染んだバスタオルはどうして使い古せたのか? 答えは、まともなバスタオルがそれしかなかったからである。
同じような例としてはTシャツがあり、これも着れば着るほどにパサパサ、ゴワゴワして肌に馴染んで心地よい。ただ、そのかわり首回りがビヨーンとだらしなく伸びてきて、実はこれがまた快適なのだけれど、外出するときはさすがにちょっと恥ずかしいから比較的新しいTシャツに着替えることになる。その結果、新旧のTシャツがうまいことローテートされて、新しいやつもいずれは着古したものへとポジションを変遷していく。
「快適さバイアス」と「外見バイアス」の両者が絶妙なハーモニーを奏でているのだ。その流れのなかで適宜、外見バイアスの作用によって新たなTシャツが買い足され、新陳代謝のようなメカニズムが自ずと働きはじめる。実にうまくできている。
しかしながらバスタオルの場合、このような自然の摂理がうまく働かない。自宅でしか使わないものだから、常に「快適さバイアス」しか働かない。するとどうなるかというと、見た目だけいい新しいバスタオルはちっとも使われず、引き出しの中に眠ってしまうことになる。
このような状況に直面している現在、残された道はバスタオルを外出着にするのみである。いずれにしても大変なものを買ってしまった。
8月4日(火曜) 深夜
そういえば先週末、関東の某所ですっかり酔っ払っていたときのこと。
一緒に飲んでいたTさんの尽力でなんとか終電に乗ることはできたものの、いざ宿の最寄り駅で下車すると、視界がぐるんぐるん回って方向が全然分からない。これが自宅に帰るのだったら、少々ぐるんぐるん回っていても長年の勘で問題なく帰巣できるのだけれど、あまり知らない土地になるともうお手上げである。
ああ、宿のヤツめ! 駅から徒歩2〜3分なのに、いったいどこに雲隠れしやがったんだ??
それでもしばらく周囲を徘徊してみた末、いよいよダメだと観念してタクシーを拾って、「○○ホテルまでお願いします」と行き先を告げたところ。
ブオーンと勢いよく発車したタクシーは5秒くらい直進したのち、キュッと左折して「はい着いたよ!」。ええっ、もう着いたの!? 乗車した距離はおよそ30mくらいだったろうか。こんなにバブリーな初乗りをしたのは生まれてこのかた初めてである。
実を言うとその直前、深夜の駅近くに立っていた人に道を訊ねたら、「それよりちょっとイイコトしていかない?」などと丸め込まれそうになって慌ててタクシーに乗り込んだクチなので、これくらいの贅沢はやむを得なかったのかもしれません。
まァ今になって思えば、タクシーの運ちゃんも「乗らなくたってすぐそこだよ」と教えてくれたらよかったようなものだけど、酔っ払い客と知りつつも遠回りせず5秒で車を回してくれたあたりに、プロの良心を感じた一件でもありました。
8月3日(月曜) 夜
先週末は関東で酔っ払って、いろんな人に迷惑をかけてしまった。
35歳にもなって自分を失うまで飲んでしまうのがつくづく情けない。ほどほどの酒で済むのは平日に自宅で晩酌するときくらいだし、それだって翌日の仕事がブレーキになって飲み過ぎずに済んでいるだけの話である。
適度の酒を楽しめる人と、そうでない人との違いはどこにあるんだろう? たとえ飲みすぎたとしても、普通に大人しくつぶれるだけの人と、そうでない人がいるのはどうしてなのだろう?
こう考えてみると、ぼくは端から自分を失うのを目的としてアルコールを飲んでいるような気がする。もちろん、飲めば気分がよくなるという単純な理由もあるのだけれど、それ以上に、七面倒臭い自意識を麻痺させて自分から自由になりたいという希求のほうが大きいのではないかと。
いい歳して未だに自意識過剰で、自分を監視する自分が変に幅を利かせているため、こいつを追い払おうとすると勢い酒量が1桁増しになってしまうんである。だからこそ、食事とともに適量を楽しむような飲み方ではなく、それこそ昔の人たちが年に何度かの行事のときだけ我を失うまでドンチャン騒ぎしたような飲み方になる。こんな飲み方を日常生活に持ち込めば、いろんな不都合が起こってくるのは当然の話である。
自分を監視する自分が完全に麻痺してしまえば、そこに姿を現すのは幼児のような自己でしかない。おまけにただの幼児ではなく、歳を重ねているぶん劣等感やら顕示欲やらの厄介なものだけはたくさん取り込んでいるから、ますますたちが悪い。
アルコールのために得たものと失ったものと……。得たものは楽しい時間とストレス解消、お酒がうまく潤滑油となって得られた交友関係あたりになるだろうか。しかしその一方で、失ったもののほうは数え切れない。足の骨折が一度、歯を折ったことが一度、そして最近も鎖骨骨折。さらに言えば失くした記憶、周囲からの評価、それに飲み代だって決して馬鹿にならない。
ただ、お酒でストレスを洗い流すのはいいけれど、勢いあまって人間関係まで洗い流すことのないよう心しなければと、改めて思った先週末。
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…とまァ、これ以上お酒で他人様に迷惑をかけることのないよう、こうやって自分に言い聞かせるように書いておるわけですが。
最大の問題は、飲みすぎて自分を失うと、こういう理性そのものがやられてしまうことかもしれません。